広河原の松上げと久多の花笠踊り(その1)

先日の花脊八桝の松上げに続いて、昨夜(8/24)京都市最北端の広河原でも松上げがあった。また、広河原から峠を一つ越えた久多では同じ時刻に花笠踊りが行われていた。昨日は午後から、京都市内に住みながら松上げどころか左京区北部の3地区(花脊・広河原・久多)は初めてという知り合いと連れだって、先ずは花脊の大悲山峰定寺にお参りしてから、広河原の松上げ、さらに久多の花笠踊りをハシゴして回った。

欲張りすぎたために日付が変わって帰宅した時には脳ミソがほぼ飽和していて、とてもブログを書ける状態ではなかった。。。思い返せば、帰りの車中で友人と交わした会話も、痺れた頭に話題がどっ散らかって収拾のつかないものだった。。。

今もまだ整理できていないが、とりあえず写真と動画を上げておこうと思う。取りとめなく書くので長くなりそう。松上げと花笠踊りは別けようと思う。

松上げ

広河原の松上げそのものは八桝同様に、灯籠木(トロ木)場と呼ばれる川沿いの広場に20メートルもある大松明(灯籠木)を立て、その上に向かって男衆が競うように小さな松明を投げ上げて火を点けるという、火伏せ(防火)の愛宕信仰に関わる行事だ。

だが広河原のそれでは、無事点火して最後に地上へ倒したトロ木の火にさらに藁を焚べ燃え立たせ、そこに向かって松上げ参加者した男衆が突進し、長い竿で炎を掻き上げる「突っ込み」を繰り返す。きっと先頭の人は熱くて必死の覚悟でやっているのだろうが、対岸から見ているとやんちゃなオトナの豪快な火遊びにも見える。

観音堂の輪踊り

僕と友人は突っ込みが全て終わる前に、灯籠木場からさらに奥へ歩いて数分のところにある観音堂へ向かう。松上げそのものは完全に男の祭りなのだが、男衆たちが松を上げ、突っ込みの火遊びをしているあいだ中、観音堂では松上げに参加できない女衆が老いも若きも輪になって「ヤッサ踊り」を踊っている。(僕達は見逃したのだが、危険な祭りの無事を祈るためだろうか松上げが始まる前に観音堂で女衆の念仏があるそうだ。)

未確認のネット情報だけど、ヤッサ踊りの謂れは「坊さんに叶わぬ恋をした娘の心情を表したもの」とか。鳴り物なしで唄うおばあさんのか細い声に合わせて、下駄で木の床を踏み鳴らして腰を曲げ、うつむき加減に黙々踊る女集の姿を見ていると、さもありなんという感じがしないでもない。(下の動画)

ヤッサ⇒ヤッサコサイ(トランジション)

ヤッサ踊りの最中に、遠くからドン、カン、ドン、カン、、、という太鼓と鉦の音に乗って朗々とした伊勢節*の唄声が聞こえてくる。やがて、松上げを終えた男衆の隊列が提灯を掲げ、ゆっくりと足を踏みしめながら意気揚々と観音堂や向かってくる。
(*これまで「伊勢音頭」と書いてきたが、広河原の松上げ保存会では「伊勢節」と表記している。違いがよく判らないので以降は後者にする)

一方、堂の中では女たちが男たちの到来を待ちわびるように夢中でヤッサを踊り続ける。おばあさんの唄声に合わせて床を踏み鳴らすヤッサ踊りの下駄の音に、鉦・太鼓の単調な音に合わせて唄う男衆の伊勢節の唄声が混じり合っても、隊列の先頭が観音堂の框(かまち)をまたぐ寸前まで女衆は踊りをやめない。

しかし、男衆が足を踏み入れた途端、観音堂は本当にスムーズに伊勢節の世界に切り替わる(下の動画1分10秒付近)。女衆が周囲に退いて手拍子で迎える中を、隊列が堂内を一回りして太鼓が中央に下ろされてからも、伊勢節唄う男衆の輪はしばらく回り続ける。いつの間にか男衆も手拍子を打っている。

ところが、何かの〆があるわけでもないのに突如として唄が変わりヤッサコサイ踊りに移行する(動画3分40秒付近)。そして気がつくとそれまで周囲で手拍子を打っていた女たちもいつの間にか男たちの輪に入って踊っている。

ヤッサコサイになっても始めのうちは、その前のゆったりとした伊勢節のテンポのまま踊られる。そのうちに少しずつテンポが上がり、床を蹴るように踏み鳴らすステップもだんだんと軽快になってくる。男女入り混じって楽しそうにヤッサコサイ踊りを踊る人たちの高揚感が観音堂の外から覗いているだけのこちらにも伝わってくる(上下の動画)。(この後さらに「これあねさん」という踊りもあって夜遅くまで祭りは続く)

松上げの祭りは愛宕信仰に端を発すると謂われるが、広河原の一連の行事は盆の送り火でもあり、ヤッサとヤッサコサイ、これあねさんは盆踊りと言っても差し支えないと思う。男が外で体を張って火祭りを行い、女は堂の中で踊りながら帰りを待つ。無事に行事を終えた男衆の隊列が到着するときの様子、女衆の迎え方、その後の踊りの内容の切り替わりやテンポの変化は、下手な演出など足元にも及ばない、伝統の中で培われた見事なトランジションだと思う。この男女交流の流れと足を踏み鳴らす踊りは、古代の性エネルギーの開放手段だった歌垣やその後に合流した踏歌の面影が今に残っているのではないだろうか。

踊りはまだまだ夜半まで続くが、久多の花笠踊りが終わってしまう前に少なくとも最後の志古淵社に着けるよう、これあねさんを見ぬまま心引かれつつ広河原を後にした。