山の暮らし探訪(その3)

高知での最初の夜に、戦前の椿山に生まれ成人するまで過ごしたのサジ子さん(サンちゃん)の高知市内のお宅で歓待されたことは前々回書いたので話は飛ぶが、「民映研の映画をみんなで見る会」の人たちとバンに乗り合わせてサンちゃんの案内のもと、無事に椿山の集落に着いた。斜面の集落では家の前まで乗り付けることができないので、少し離れた所で下車したら、グズグズしているみんなを置いてサンちゃんはさっさと歩き始めた。振り返るでもなくどんどん行ってしまう。80幾つとは思えない軽い足取りで。。。ああ、ほんとに自分の故郷が好きなんだな。

サンちゃんの家は、椿山の他のどの家もそうだけど、丸石で築いた石垣の上に斜面にへばり付くように建っている。どの家も藁葺や茅葺きではなく瓦屋根だ。多分明治以前、戦前くらいまでは枌葺(そぎぶき=こけら葺)だったのだろうと思う。現在の法律では可燃性材で屋根を葺くことは原則禁じられているから、家の修復に合わせて順次変わってきたのだろう。

『山間 -高知の民俗写真2-』(田辺寿夫)より。昭和30年代の氏仏堂の屋根。古い枌葺(そぎぶき=こけら葺)。

それはともかく、椿山の家は猫の額のような土地に建てるべくサイズが小さく、殆どが軒の低い平屋で、中の建具も畳も全てが小ぢんまりしている。とても背の低いサンちゃんにはしっくりくるだろう。

屋内に入ると長年の囲炉裏のにおいが今も残る。仏壇も外され農機具などが土間に固められていてさすがに生活感は薄れていたが、それでもブラウン管のテレビや囲炉裏の上に置かれた石油ストーブ、古い掛け時計、本棚の椿山小学校卒業アルバムなどと一緒に農作業服姿のサンちゃんを見たら、何十年もタイムスリップしたかのように思えた。

サンちゃんのおじいさんが戦前に200円で建てたという、住居のすぐ下にある納屋も見せてもらった。耕作をしなくなって半世紀にもなるのに今もヒエだったかアワだったかの雑穀の種が保存されていた。もう、二度とこの土地で蒔かれることもないだろうに。

 


山の暮らし探訪(その2)

椿山は高知市街から北西へ車で2時間仁淀川水系を遡った源流部にある。四国最高峰の石鎚山(標高1974m)から直線で10kmの四国山地最奥部の急な斜面に在る僅か2,30戸の小さな集落だ。かつて椿山には数百人が暮らし、山の藪や雑木を燃やして拓いきその灰を肥料としてカブなどの野菜や雑穀を栽培する焼畑という古くから伝わる農法が1980年ごろまで行われていた。

民映研(民族文化映像研究所)の姫田忠義が椿山の生活を記録したのは1970年代中頃で、当時、既に日本の他の地域では焼畑がほとんど行われなくなっていた。椿山に焼き畑が残ったのは紙幣にも使われる丈夫な和紙の原材料であるミツマタを栽培して貴重な現金収入が確保されていたからだという。日本の焼き畑文化の末期に4年に渡り椿山に通って制作した民映研の記録映像『椿山 ~焼畑に生きる』を見ると、石混じりの痩せた土がザラザラと崩れ落ちる急峻な斜面での焼き畑がいかに大変なものだったかがよく理解できる。

Google Earthの画面より

京都の「民映研の映画をみんなで上映する会」が堺町画廊で行なってきた短編の上映会に2年続けて参加した。今年の最終回でメンバーの方から、椿山を訪ねるツアーをやるので参加しないかと誘われた。この秋に長編の『椿山』を上映する予定だが、その時に椿山出身者で焼畑の経験や山の生活を非常によく憶えているおばあさんを呼んで、映像の解説や料理の指導をしてもらうのだとか。その準備のために現在は高知市内在住のおばあさんに会い、案内してもらって現地を訪れてみようというものだった。

若い頃に京都の北山歩きが高じて山村の暮らしに憧れ、京都市北部の花背別所に引っ越したほどだったし、できて間もない万博公園の国立民族学博物館で、その映像アーカイヴであるビデオテークがまだVHSカセットテープだった頃(椿山のものだったかどうかは記憶していないが、奇しくも椿山の焼畑終焉と同時期)に、焼畑の記録映画を見ていたほどだったから、椿山に行けるのは願ってもないことだった。

ただ、ずっと気ままな一人旅をしてきた僕はグループ行動や他人の決めた既定の旅程をなぞるのが苦手。それに何より、現在たった1人だけになったとはいえ、住人の居る集落に単なる物見遊山、通りすがりの覗き見的な訪問はしたくない。本当なら二つ返事で何を置いても参加したかったところだがちょっと躊躇した。

でも案内してくれるのが、戦前生まれで電気のない時代の椿山を記憶していて、結婚して離れたとはいえ故郷を愛し、焼畑をはじめ椿山の生活について積極的に語り継ぎたいと思っている元住人であるなら、そして、民映研の映画を自ら上映するほど日本の民俗文化を真摯受け止めようとする人たちと一緒に行くのなら、こんな機会はめったにないので参加を決めた。


山の暮らし探訪(その1)

ニュースを観るつもりでテレビをつけたまま迂闊にも居眠り。夜中にふと気がつくと映っていたのは、山の斜面にへばり付くような山里に暮らすおばあさんだった。ほんの2日前、高知の最奥部にある椿山で出会ったシゲ子さんと、そこへ案内してくれた椿山出身のサジ子さんの姿に重なる。寝起きのボーっとした頭のなかで記憶とテレビの映像がグチャグチャに入り混じって夢なのか何なのか区別がつかないまま、山道を一人歩くおばあさんの後ろ姿を目で追った。。。

ムツばあさん(NHKの番組サイトより)
サンちゃん、椿山の自宅へ

ソファーに寝転んだまま寝ぼけ眼で画面を眺めているうちにだんだんと我に返って、やっと頭の整理がついてきた、、、と思ったら番組は終わってしまった。『秩父山中 花のあとさき ~ムツばあさんのいない春~』という番組だった。寂れゆく山里で、夫に先立たれ、村人が減っても一人で気丈に生きたムツさんの晩年の暮らしぶりを番組はムツさんが亡くなるまで十数年に渡って記録していた。

今回、縁あって京都の「民映研の映画をみんなで上映する会」の人たちに誘われ、秋に予定されている民映研の『椿山 ~焼畑に生きる』上映の下準備の旅に同行させてもらうことができた。高知市街から車で2時間、高知の清流仁淀川を遡り、支々流のひとつ大野椿山川の源流域の急斜面ある戸数2、30ほどの集落椿山が、限界集落どころか人口わずか1人となって、今まさに朽ちゆこうとしている。夢うつつで視た秩父の山間集落はムツばあさんが亡くなったあと人口が減り続け今は無人なったという。椿山もやがては同じ道をたどるのだろう。。。

高知に着いて先ず訪ねたのは現在80幾つかになるサジ子さん(=サンちゃん)。椿山に生まれ、成人して高知市へ嫁ぐまで、電気もガスも無かったこの山深い集落で暮らし、焼き畑でアワやソバ、キビ(トウモロコシ)、和紙の原材料ミツマタを栽培していた方だ。サンちゃんは今も毎朝、近隣の山を歩くのが日課で足腰がしっかりしている。椿山の焼き畑は集落とは谷を挟んだ反対側の急峻な斜面で行われていたので、若い頃そこで培われた基礎体力の持ち主のサンちゃんにとっては近郊低山の散歩など「なんちゃぁない」文字通り朝飯前なのだろう。

椿山には水田がなく、焼き畑で採れるヒエやアワなど雑穀が主食で、季節の山菜と「コヤシ」と呼ばれる各戸の傍の小さな自家用畑で栽培した芋やキビが1年365日の食になったそうだ。しかし質素で限られた食材しかない山里でもいろんな工夫をして、きっと精神的には豊かな食生活を送っていただろうということは、椿山を訪れる前夜に高知市のサンちゃん宅でごちそうになった「ヨジメの実」(ガマズミ)で漬けた土生姜や「カラタチの葉」(サルトリイバラ)に包まれたヨモギ餅などの味付けの洗練にうかがい知ることができる。

他にも色々とごちそうになったがみなシンプルだけど上品な味付けで美味しい。伝統的な食材の調理法を憶えているだけでなく、成人後に街に出て初めて出会ったであろう食品や材料を使いこなす工夫を80を過ぎた今も続けているのは、椿山の人共通の食文化の伝統に由来するものなのか、それともサンちゃん個人の資質に依るものなのかは判らない。

サンちゃん宅の夕餉で、海辺の須崎市から駆けつけてくれた「高知・民族文化映像研究所の映画を見る会」の八金姉御が持参し料理してくれた新鮮な鰹(刺し身、生節、それに当然タタキ)の切り身の豪快な巨大さに圧倒され、サンちゃんの山の香りがする手料理を堪能し、高知の夜は更けていった。。。

頭脳明晰で若い頃の生活の様子を事細かに飾ることなく話してくれるサンちゃんは、椿山の生活を今も愛している。故郷に誇りをもっていて常に積極的に話をするので記憶が薄れることなく更新され続けているのだろう。飾ることがないから知らないことは「知らん」と言うし、戦前の椿山の焼き畑文化を正確に語れる貴重なインフォーマントだ。

夕食後一緒に民映研の『椿山』のDVDを観ながら、撮影された当時(1970年代)の集落の人々を紹介し、生活の様子を直々に解説してもらえた。秋の京都での上映会本番にはサンちゃんが招かれて解説や料理教室も企画されているというが、それに先立って高知の海と山の料理と、翌日訪れる椿山の生の情報が付いた記録映像を堪能できた。