広河原の松上げと久多の花笠踊り(その2)

松上げとヤッサ踊り、ヤッサコサイ踊りにすっかり魅了されて、広河原を離れた時には午後10時を大きく回っていた。久多まで10キロメートル少々だが峠越えの山道なので20分はかかる。花笠踊り一行が久多上の宮から大川神社を経て最後の志古淵神社に着く時間がよく判らない。間に合うだろうか。

久多花笠踊り
久多について

左京区北部3地区(花脊・広河原・久多)は京都市内とはいうものの市街地から何十キロメートルも離れていて、山間僻地を絵に書いたようなところだ。来る時に通った花脊と広河原の2地区は、大きく京都府下まで迂回するが最終的に京都盆地に流れ込む大堰川(桂川)の源流域だが、久多は、京都北山(丹波山地東部)の東端と比良山系の西面に沿って北へ流れ高島市で琵琶湖に注ぎ込む安曇川の流域に属している。

久多峠: 能見(広河原)方面から久多方面に向かう。Fiat500は広河原方向に向いている。(別の日に撮影)

久多は安曇川水系針畑川の支流久多川沿いの集落で、古くから交流が深かった針畑と共にかつては近江国朽木藩領であったが、現在はなぜか針畑は滋賀、久多は京都に別れている。安曇川の最上流部にある百井、大見、尾越の集落も同様に京都に属しているのも不思議だ。これらの集落をはじめ、昔から豊富な木材を伐採し、筏を組んで琵琶湖へ搬出していた安曇川上流の各地には、筏流しと河童にまつわる伝説の「シコブチ神」を祀る土着信仰がある。久多の志古淵神社は主要な七シコブチのひとつに数えられる。現在の行政区分がどうであれ久多は近江の経済・文化圏に属すると考えられる。

久多:志古淵神社(Google Street View )

ところで、先程見てきたばかりの広河原の松上げと同様に、久多でも小さいながら「チャチャンコ」と呼ばれる松上げが行われている。火伏せをつかさどる愛宕権現に奉納される松上げは花脊・広河原だけでなく、更に北の佐々里峠(中央分水嶺)を越えたところに発して日本海に注ぐ由良川の上流域にもあり、またその東側に位置する若狭の旧遠敷郡の集落にも見られるが、総じて北山(丹波山地)の伝統行事であるといえる。

久多は、火の神である愛宕さんと、安曇川上流域の土着信仰で水の神であるシコブチさんが出会う不思議な場所だ。

花笠踊り

久多の花笠踊りはどうやら他の地域では見られない久多独特のもののようで、国の重要無形民俗文化財に指定されている。なのに京都に住んでいても知る人は殆どいない。

全国には多様な花笠踊りがあり、その多くは中世の「風流踊り」を源に持つという。風流踊りは着飾った男女が音曲に合わせて賑やかに踊ったらしく、当時としては「ノリ」の良いテンポやリズムに合わせて楽しく身振り手振りする踊りだったのだろう。

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風流踊・水掛祝図屏風(十念寺 蔵) 久多の花笠同様に、踊り手の被り物には草花が飾られ、垂幕が下がっている。四角や六角形の枠も花笠の灯籠部分との関連を伺わせる。

久多の花笠踊りはその「賑やか」な風流踊りの様子を良く残しているのだというが、手の込んだ造花を飾った花笠(灯籠)の派手やかさとは裏腹に、今の人から見れば唄や踊りの振りはまったく賑やかとはいえない。踊り手はゆったりとした唄に合わせて、ゆらりゆらりと揺れているだけだ。

風流踊りからは多くの芸能(念仏踊、盆踊り、雨乞踊、虫送り、太鼓踊、浮立、剣舞、鹿踊り、ある種の獅子舞に至るまで)が派生したとされる。時代が進み世の中が忙しくなるに連れて、これらの踊りは元になった風流踊より増々賑やかに、アップテンポに進化してきたはずだ。

写真: やすらい笠
上賀茂やすらい祭( photo by juraihelm) 風流踊りを彷彿とさせるものにやすらい祭がある。今宮神社や玄武神社など京都市北部に数か所残るやすらい祭では、縁垂れの付いた笠の上に草花が飾られ、その傍で鉦と太鼓を叩きながら動きの大きい踊りが踊られる。また時代祭の「室町洛中風俗列」にも飾り立てた笠と踊りの風流踊が登場するが、明治以降に「再現」されたもので、その正確性はさだかではない。

「賑やか」とされた原初の風流踊りに近いと言われる久多花笠踊りのしめやかな唄や振りを目の当たりにすると、中世の人たちの音楽や舞踊のテンポが、ひいては彼らの生活の中で時の流れる速さが、いかに現代とは違っていたかを覗い知ることになる。つまり、花笠踊りの夜、久多には本当にゆったりと「風流」な中世の時間が流れているのだ。

志古淵神社境内

つづら折れの山道を登り久多峠を越えて、10時半ごろ久多宮の町にある志古淵神社に到着。車道からほの暗い境内に花笠の揺れるのが見える。間に合った。少し先にある友人宅の駐車場に車を駐めて、駆け足で神社へ向かう。

唄い手の声を聴きながら鳥居をくぐって、10メートルか20メートル四方ほどの狭い境内に入ると、浴衣掛けに兵児帯姿の男の人たちが十数人、ロウソクの明かりが入った行灯状の花笠を持って櫓の周りで踊っている。ていうか、手振りも足運びもなく社殿に向かって立ったままひたすらゆーるりと揺れている。

踊り手たちが向かって立っている本殿には灯明がともされていて、その前の神楽殿に白い狩衣に烏帽子姿の神主が二人、じっと正座して踊りを見下ろしている。彼らは「神殿(こうどの)」と呼ばれ、素人の持ち回り役らしく踊り終盤での挨拶のおぼつかなさが微笑ましい。

花笠の向こうに神殿が座して踊りを見下ろしている

曲目が変わると、踊り手たちは櫓を囲むように輪になって回り始める。身振りも少し大きくなり、揺れるだけでなく膝を折るようにして上下したり、その場で回転したり、いずれにしてもゆっくりではあるけれど、少し踊りという概念に近づいてくる。

境内には踊りを取り囲むように人垣ができているが、それでもおそらく100人もいないのではないか。地元の女性が鳥居下のテントで飲み物を売っているだけで、商魂たくましいテキ屋さんも流石にここまでは来ない。観光商業化とはほとんど無縁の祭りだ。立って観ている人たちにもお神酒とアテのスルメが振る舞われる。

疲れたので境内の隅の長椅子に腰掛け、すぐ隣で休んでいた浴衣姿で祭りの参加者とおぼしき地元の方に、花笠踊りについてあれこれ訊くが、気さくに答えてもらえる。いつか観光バスで人が押しかけるようになったらこうはいかなくなる。ていうか、狭い境内に入り切らなくなって、「風流」もへったくれもなくなってしまうだろうな。(ここで嬉しそうに書いている事に矛盾と後ろめたさを感じるが、、、)

祭りの周辺

街から遠い久多は地場産業がなく、炭焼きは滅び、シコブチさんに護られた筏の時代もとうに去って林業は青息吐息。過疎化が進み、住民票は置いてあっても勤めのために集落を離れている人も多くなっている。昔は8月に入ってから各町ごとに「花宿」と呼ばれる家で男衆が集まって一から十まで花笠を作ったものだが、人が減ってそれも難しくなったと、隣に居た人が話してくれる。今は各自の家でめいめいに部品を作っておき、日を決めて花宿で一気に部品を組み合わせるというのが多いそうだ。そう言う彼の花笠は「忙しいので6月には出来上がっていた」とのこと。祭りも見えない所で変化を余儀なくされていたのだった。

飾りの造花も切り絵も、踊り手の自作。男だけの仕事になっている。

そうやって苦労して花笠踊りは維持されている。今のところ祭りを観光化して久多の経済に寄与させようという動きは見られないが、、、もしそうなったとしても、それは住人の選択。部外者の僕には何も言う資格が無い。苦労を偲びながら花笠踊りがこのままで続くことをただ願うのみ。

ちなみに、境内中央の櫓は花笠踊りと何の関係もないように見える。隣のいる祭りの人に訊くと、花笠踊りの男衆が北から上の宮、大川神社を巡って志古淵神社に来る前に女性たちだけで盆踊りを踊るための櫓なのだとか。

その人によると、この祭りは久多の上と下に分かれて唄と踊りと花笠の見事さを競い合うものだが、花笠の美しさは男が女性の気を惹くためのもので、例えば鳥が綺麗な羽を広げて求愛のディスプレイをするようなものなんだとか。その真偽は判らないが、、、。この祭りは花笠を作るのもそれを持って踊るのも男衆。祭りで出番のない女衆が男衆のいない間に盆踊りを踊るというのは、広河原で見た松上げを行う男衆とヤッサを踊って待つ女衆の関係をちょっと思い起こさせる話だし、古い時代の盆踊りが男女の出会いや関係を持つきっかけであったこととも符合する。

同行の友人は女性だけど、花宿で花笠を作るところを見せてもらうことは可能かも尋ねてみると「相撲の土俵のようなことはないから大丈夫」とのこと。しめ縄で結界を張った神聖な松上げの灯籠木場と、砕いて言えばナンパの道具である花笠との違いなのかな。そして「普段から女の人の助けなしには、手間隙のかかる花笠は作れないし、いろんな準備が必要な祭りもできないよ」という話だ。それがたまたま尋ねた人固有の考えなのか、久多の男共通の認識なのか知らないが、実際そうなのだろう。

話を聞いているあいだも踊りはゆらゆらと続くが、11時半を回る頃、特別な儀式もなく流れ解散のように花笠踊りは終わり、僕らも花脊方面に戻らず安曇川から滋賀途中、大原回りで京都に戻る。