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頚椎前方固定術で入院 その3(退院、帰宅、その他)

 

退院の朝。まだ、ベッド周りはいつもどおり。
この期に及んで、仕事するか?(笑)
退院の朝

昨日、退院の話がでたらもうその夜には本日(2月22日)に決定となった。今朝、食事が来たときに何時頃退院するか?と聞かれたので、普通はみんな早く帰りたいもんだから10時〜11時くらいだと言われた。夕方晩くならなければ午後でも全然OKだとも。午後ってことは昼飯が出る。今の今まで、心の中で食事の質素さ(不味いわけじゃないが、、、)に不平をぶちまけていたくせに、帰ってから一食でも手間が省けるなら、ここの病院食の食べ納めをしてからでもいいか、と思うようになっていた。

リハビリ

朝食後は持ってきたものをバックパックに詰め直し、看護師さんから退院の書類の説明と、傷の化膿止めの抗生剤その他の薬をもらった。ふと、リハビリの理学療法士さんのことを思い出した。日、月がお休みだったので、月曜は他の方に変わってもらったが、土曜日に、次は月曜ですね、と話をしていたのに、最後のリハビリ運動と施療をしてもらいたかったなあ、、、いつもリハビリは午後だったから無理だろなあ、、、と考えていた正にその時、僕の退院の連絡が行ったのか、僕のところまで来られて、午後退院であれば昼飯前に時間を作るのでやっていきませんか?とのお誘い。願ったり叶ったり!この人のマッサージ(というのかな)は、僕特有の骨格や筋肉の傾き緩みを適確に把握して、手術の傷からくるストレスを開放してくれる。いわゆるリハビリと言えば的な運動練習に加えて、筋肉の緊張や痛みを上手く緩めてくれる。しかも体の反対側の筋肉とのバランスを考えて、むやみに緩めるのではなく丁度良いあんばい。退院直前に最後の仕上げをしてもらった感じ。

210号室

リハビリから戻り、昼飯を済ませ、同部屋の患者さんたちに挨拶をした。「退院祝い」じゃないけど、長期入院を想定して友人にどっさり届けてもらったティッシュを一箱ずつ置いていった。さて、この210号室の4人は普段、ほぼ全く言葉を交わすことがなかった。もちろんたまに顔をあわせることもあったが、軽く会釈する程度だった。

ところが昨日になって、後から入ってきた隣のKさんが辛そうだったのでこちらから声をかけたら、別に会話が嫌いそうでもなく、僕と同じ頸椎手術を受けた経験や、今回は腰が原因で突然歩けなくなったことなど話がはずんだ。

今日は僕がカーテンを開けっ放しにして荷造りしていたら、向かいのMさんがひょっこり顔を出した。コロナで会社が人手不足なので手術を延ばせだの、さっさと復帰しろだのとの矢の催促が絶えないのだとか。会社という組織は人の体を何だとおもってんだ、と思ったが、長期入院になって、もう帰る机はないよ、と言われるよりマシですよね、と慰める。手術・入院は初めてだそうで、腰椎を結構複雑に修復したようだが、もっと簡単に治ってすぐ退院できると考えていたとか。でも、まだ術後4日しか経過してないから、そりゃちょっと虫が良すぎる。15年前の僕の腰の内視鏡手術はもっと単純だったから1週間せずに退院できたが、Mさんも血腫ドレナージや導尿のチューブは抜去されてるので、退院もそう遠くはないだろう。

最後に、斜め向かいのIさんにも挨拶をした。この1週間、さほどの会話はなかったが、僕より前から210号室に居た人で、一番多く顔を合わせていたから、話をせずともすでに親近感があった。

池永稔医師との出会い

さて、僕は今まで3度の脊髄除圧手術を受けた。あたりまえだけど全て池永医師の執刀。15年前の腰椎のとき、彼に巡り会えるまで6軒の病院を回り、6人のドクターをインタビューした(セカンドオピニオンというより、僕の希望にもっとも近い手法で、しかも手術回数が多く、且つ、小うるさい僕を納得させるだけの話ができる医者を選ぶのに必要な作業だ)。

最初に脊柱管狭窄と診断し、手術が必要かもと言ってくれたのは、大宮北大路にあった学際病院の医師だったが、この人の偉いのは、セカンドオピニオンを聞きたければ、京都には大きく「京大閥」と「府立医大閥」(「閥」とは言わなかったかもしれないが、、、「系」だったかも)があり、彼は府立医大出なので、知らずに府立大の息のかかったところへ意見を聞きに行くと似たようなことを言われるから、京大出身者の多い病院にも言ってみるのが良い、とアドバイスをくれた。そして具体的には、伏見の国立医療センター、国立宇多野病院、京都市立病院などを挙げてくれた。僕はそのうち宇多野と市立に行ったのだが(腰が痛く、脚が痺れて歩けないので伏見にある医療センターは流石に遠く除外)、それ以外にも、京大、府立医大系どちらか知らないが、京都第二日赤、聖ヨゼフ整肢園(ここは知り合いが大昔腰椎手術を受けたところだが、当時もう手術は行っていなかった)にも出向いた。

どの病院、どの外科医も、優劣つけがたい印象だったが、最後に行った市立病院で件の末永医師に話を聞けた。僕の心配ていうか、疑問は

  • 酒が飲めない(肝臓がアルコールを上手く分解できない僕のような)人間が初めての全身麻酔に耐えられるのか?
  • どうせなら、傷が小さい(つまり低侵襲の)内視鏡下手術で、短時間でできないか?
  • 当時、まだまだ少し大きい傷になる顕微鏡下手術が主流だったが、内視鏡で十分な術数を積んでいるか?
  • 上記の質問への医師の答えが、患者の理解能力に応じてできるだけ詳しい説明やコミュニケーションができるか?

だったが、詳しくはまた別の機会にゆずるとして、上記のような質問を完全にクリアして尚、お釣りのくる人柄が池永さんにはあった。そして即断。池永さんも、MRIで見た状態があまりに悪いから放っておけない、と、びっしり書き込まれた手帳を繰りながら空きを探してくれた。そして手を止めて「この日は非常に大きい手術があり、その後の予定を入れていないから、夜晩くなるかもしれないけど、なんとかもう一つ差し込める」と、本来なら8月まで待たなきゃならないところが数週間後の3月中旬に決まった。

そりゃ早いに越したことはないので嬉しいけど、大手術でお疲れのところ申し訳ない。凄い人に会えたなと、その日会ったばかりなのに、全幅の信頼を寄せられる気がした。だが、待てよ、、、大手術でクタクタの医者に切ってもらうって、、、どうよ、とも思った。しかし、それが杞憂であったことは手術の結果だけでなく、彼のその後の活躍や勤務状態を見ると、全く疲れを知らないのではないのか、医学界の明石家さんまか?と思えるほど。彼はいつ寝てるんだろう、と思うことが今でもしばしばある。ただ、健康でいてほしい。

市立病院の人々

さて、その建て替え前の市立病院の旧病棟は古く、設備はボロいし、飯もお世辞にも美味いものではなかった。ただ、入院患者はおっそろしく陽気な人が多かった。大部屋の住人達は廊下をまたいで行き来し、たむろし、いつも何人かずつのグループがガヤガヤと立ち話(クルマ椅子も多かったが)をしていた。そして、決まってまずい飯に毒づくのだ。ある人が調理場を覗いたら機械で刻んだ野菜をスコップで鍋に放り込んでいた、というので、食事が来る度に飽きもせず「スコップ飯」と罵る。僕は僕で、馬頭琴を持ち込んで病室でギィ~コギコと弾き、下手な喉歌(ホーミー)を唸るのだ。わずか1週間に足りぬ短い入院だったが、最初の手術でもあり、あの楽しさは忘れられない。

国立医療センターで

市立病院で撮ったMRIだかミエログラフィー(脊髄造影CT)だかを見た池永さんは「5年もすれば首にも来るかも」という予言をしていたが、はたしてちょうど5年後に、今度は前回では遠くてパスをしていた伏見の国立医療センターで手術を受けることになった。池永さんがそちらへ移動していたから。医療センターでも大部屋だったのだが、雰囲気は市立病院のそれとはかなり違っていた。あんな雑然とした人の交流は少なく、患者はみんな大人しかった。入院当初の麻酔説明のときに、東北地方の大地震が起き、手術直前には福島の原発がボンボン爆発するところが談話室のテレビで放映されていたから、そういうものが患者の心や気持ち、行動に影響があったのだろう。少なくともあの状況で陽気なジョークを飛ばす人はいない。その代わり、同部屋の人たちとは親密になった。はじめナースステーションの前の回復室で一晩中「痛い!痛い!」とヒーヒー泣き言を言っている人の声が聞こえてきて、あいつが同部屋になったら嫌だな、と思っていたら、悪い予感は当たるもんで、そのうち僕のいる部屋に運ばれてきた。

痩せ、ハゲ、色黒の貧相なオヤジで、そのくせ眼光だけは鋭く、でも子供のように痛がっている。手足が4本とも折れていて、聞くとバイク事故だとか。歩けないし、手も動かない。トイレはベッド上、食事は看護師に口に運んでもらう。聞けば元機動隊員で、その後、白バイに乗っていた警察官だったそうだ。僕は活動家ではなかったが「どちらか」といえば左シンパだった学生のときのイメージで機動隊員は忌み嫌う存在だし、ドライバーとしたら白バイなんて疫病神じゃん。子供の頃に自転車に乗っていて、やってもいない交通違反をやったと白バイのお巡りに捕まり、逃げてもいないのに逃げたと怒られたことは一生忘れない。その白バイの成れの果てが、よりによってバイクで転んでこれだ。ザマミロ!と言いたいところだが、そもそも、そんな話を僕が知っているということは、いっぱい喋ったからだ。

そんなNさんとは本当に長い時間、喋り続けた。彼は警察を早期に退職後、ヘリコプターのライセンスを取得し、大阪の舞洲で時々飛んでいたらしい。僕もアメリカで陸上単発の飛行機と北海道で滑空機・モーターグライダーのライセンスを取ったから、空を飛ぶ人との会話は楽しい。他にも個人的な話や、事故の経緯も聞いた。元警察官がどういうわけか左翼系の民医連の病院で透析を受けていたそうだが、ある晩、透析後にバイクで帰る途中、荷台のアオリが半開きだったトラックに引っかかりもんどり打って地面に叩きつけられたのだとか。僕もバイク乗りだし、過去の立場がどうであれ、とてもザマミロとは思えない。機動隊員だったというから柔道などをやっていたはずだし、白バイ乗りだったからか、、、手足が折れることで衝撃を吸収し、体幹や首、頭部へのダメージを避けられたので命をとりとめたのか、、、。そんな会話を交わしているうちに半月余りの入院はあと言う間に過ぎ去った。

相馬病院のこと

長い回り道だったが、今回の相馬病院(別に、病院名を明かしても問題ないだろう)では過去2回の入院とは、また全く雰囲気が違っていた。一般病床130のさほど大きくない私立の病院で、脊椎外来を受け持つ池永さんは週に2回しか来ない。執刀医に代わって理事長の相馬さんが形式上の主治医ということになっている。人当りがよく、見た目はちょっとどこかに医者の家系のボンボンのイメージを残す相馬医師も池永さんと同じ外科医だけど、僕は彼の経歴や医療技術、能力などを全く知らない。ただ、こまめに入院患者のところに顔をだし、話をよく聞いてくれるうえにこちらの要望への対応も早いから、まずは安心している。忙しい池永さんがいない時に、首の血腫ドレナージや導尿の抜管は相馬さんにやってもらったし医療の体制には何の不満もない。実際、昨年12月に首の不調で池永さんに予約を入れようとしたら初回の診察は2月まで待たなきゃならなかったが、理事長の相馬さんに先ず診てもらうことで、池永さんの予定に差し込んでもらうという、ちょっとしたズルをカマシたのだが、お陰で1月早々に池永さんの診療を受けられた(ただし、これが誰にでもできる方法ではない。自分で言うのも変だけど、僕の首の状態はそれほどに悪化していたからで、軽かったら相馬さんも整形の医師として、池永さんに負荷がかかるようなことはしないだろう)。そのへんの医師間連携は上手くできているようで、おかげて今僕は家のMacでこれを書いているわけ。

ベッドに居ると医師以外のナースその他のスタッフたちが作業しながら、廊下で冗談ん言い合っている声がよく聞こえてきたし、彼らの患者への接し方や対応も全く感じ悪くない。むしろ、以前の国公立の病院より好もしい印象をもった。(市立病院も医療センターも悪かったわけでは決してないが)。強いて言えば、食事は不味いわけではないが、あまりにシンプルで、スパルタンでさえある。ただ、それは僕の手術箇所が喉であり、食道が腫れているのと、果物アレルギーが異常に多いのを警戒した結果の献立だったせいかもしれないな、と思う。

ふたたび相馬病院の入院患者

また話がそれてしまった。相馬病院の入院患者はおしなべて各ベッドの閉じたカーテンから出てこない。以前の病院では、寝るときや着替え、ベッド上の排便など以外はカーテンを開け放って、顔を見ながら話をしたり、他所の部屋へ攻めて行って、ガヤガヤおしゃべりしたのだが、ここはほどんど誰も出てこない。入院病棟には談話室もあるのだが、使っている人を見たこともない。廊下を歩くと高齢の女性が数人、車椅子で窓から外をぼーっと眺めていたり、何をするでもなくナースステーションに座っていたりを見かけたくらいで、みんな何をしてるんだろうと思った。僕は体から管が取れたらすぐに、談話室に行って心配してくれている友達に電話したり、メール書いたりして時間を潰したが、他の人達はみんな北京冬季五輪を観ていたのかな。

それでも、先に書いたように、ようやく退院という日になって、全員と顔を見ながら会話できた。あたりまえだけど、どなたも気難しい人嫌いでカーテンを開けていなかった、といことは確認できた。病院から特段の指示は出てなかったけど、コロナの影響がこういう形で出ているのかも。ここではベッドの周囲のカーテンがマスクの働きをしてるのかもね。

退院

はじめ、抜糸を行う術後2週間が退院の目処と思っていたが、実際は1週間で出られた。同部屋患者さんたちにお別れし、ネースステーションで書類を受け取り、いよいよエレベーターで1階に向かう。もう戻らないでください、と言われた。それは病気が完治するように、というはなむけ言葉ではなく、入院前にPCRと個室隔離を経て入ったコロナフリーの病棟には外に出たやつが舞い戻っちゃ困るという意味。齡70だと高額医療費の手続きをせずとも、支払いの頭切りが自動的に適用され、クレカでちゃちゃっと支払って、外に出た。あっけない入院の幕切れ。天神さんの鳥居が暖かく明るい陽を浴びていて、もう春の気配が感じられる。

帰途につく

市バスに乗って西陣の旧茶店(旧自宅)に立ち寄り、置いてあったCiaoを引っ張り出して、バックパック背負って乗ってみたが問題なく走れる。コケたらヤバいのでゆっくり走る。途中、入院中の買い物を頼んだ友人ちに立ち寄って精算(緩い液体が飲み込めなかったのでとろみ剤と、思いの外たくさん使ったテュッシュペーパーは本当にたすかった。

原谷に近づくとパラパラと雪が舞い始める。まだ2月だもんなあ、、、。積もらんでくれよ、、、。ていうか、原チャで帰宅したって病院に知れたら怒られるやろなあ。(ナイショナイショ)

冷え切った家に入ると、年末以来、体の自由がだんだん失われて散らかりっぱなしの室内に、病院のほうが良かったかも、と一瞬思った。(でも、指先の感覚、両手両腕の機敏性、巧緻性、可動域、力が戻っているんだし、何よりC5麻痺が起きていないから、文句は言うまい。

手術は大成功。メデタシメデタシ!