画廊の通り庭から奥のギャラリースペースに足を踏み入れたら、一瞬それより前へ進めなくなった。これほどの「場」の圧力を感じさせるインスタレーション作品に出会ったことは久しくなかった。
何だかよく解からないガラクタ集めてテレビやモニター転がしておけば「新しいアート」だと思いこんでるようなものが今だにある。そんなのはNam June Paikが半世紀も昔にやって、今や歴史となってしまったインスタレーションの古典なのに。そういう意気がった小ざかしいのに遭遇するとサムい思いをするだけなんだけど、、、
しかし、これは違う。何よりイコノグラフィーの直截さが、余分な理屈を排除し、それを観る者、いやそこに居る者に作者の気合がストレートフォワードにのしかかってくる。さらに道具はナタ一丁、絵筆一本という作者の潔さもこの作品の大きな力になっている。
ここより前に行われた別のところでの展示では、絵巻物のように長い絵が壁に一直線に貼られ、しかもガラス越しにしか見れなかったとのこと。堺町画廊では持ち込んだ絵を画廊の壁3面にコの字形に場当たり的に吊るしたものが、ギャラリースペースのサイズ感にピッタリ合って、そこに立つ者を包み込む。
搬入時の作者の思いつきで使ったという画廊備え付けの什器である古い調薬テーブルの上に、これもまた思いつきで急遽乗せた立ち昇る煙の形をした木彫作品が、画廊の高い吹き抜け天井へ向かうようにそそり立って空間を縦方向にも統合し、場を支配している。(知り合いが「祭壇のよう」と表現していた。まさにそんな感じ)
入り口から続く木偶の群れはその調薬台へ向かって倒れ込んだおびただしい屍体の川のようにも、津波に打ち上げられ折り重なった枯れ木の流木のようにも見える。或いは生(Life)の始まりを象徴する精子の行進なのかもしれないが、ただ、その行き先はまるで原発の爆発が生み出したプルームのようなものなのだ、、、
一方、展示のメインである絵の方は、先に書いたように非常にナラティヴで解釈の必要もない。但しそれは、右手側の端から左回りに、太古の生命の始まりを表すカオス状の点描渦巻きから、人々の牧歌的日常風景になり、飛行機や自動車、列車ビル群へと移り変わり、最後に津波、原発の爆発、という順で観た場合の話。
僕は、何十年も前にチベットで植え付けられた右回りの癖で、順序を逆に観てしまった。津波や原発事故から都市が壊滅してしまい、人々は原始的な生活に戻り、やがて生きとし生ける物へたちが溶け合って混沌に至る、、、という解釈をしてしまっていた。
(さらにそこから木偶の群れの流れに戻り、中央の「祭壇」から立ち昇る煙へ至る。それは最初の原発の爆発のイメージと重なりつつ、元元の時空には戻らない螺旋を構成し、見る者の意識を平面的周回から離脱させる。
しかしそんな流れを目で追うより前に僕は足を踏み入れた瞬間その場に釘付けにされた。コイルが作り出す磁場のようなものがすでにあの空間、には満ちてたのかも知れない。)
結局、イコノグラフィーの直截さがなんちゃら、ストレートフォワードで余分な解釈は不要だかんちゃら、って書いておきながら思いっきり「独自解釈」に嵌まってしまったのだけれど、、、
いずれにしても、面白いのは、作者がこの堺町画廊という空間に触発されて、臨機応変に展示方法や内容をモディファイしたことがこのインスタレーションに強烈な力を与えているということ。作品の醸し出す「佇まい」を僕が言葉で四の五の言っても始まらない。一見の価値あり。京都近辺の人はぜひ。
http://sakaimachi-garow.com/blog/?p=3383
安藤榮作展 LIFE @堺町画廊
12月5日(火)~17日(日)11:00~19:00 最終日18:00 月曜休