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before “To Kill a Mockingbird”

以下は以前の投稿「『アラバマ物語』の前に」に英訳をつけたもの。

Following is a translated version of my former post “『アラバマ物語』の前に.”


中学一年だったと思う。学校の映画鑑賞で観た『アラバマ物語』は、その穏やかなモノクローム映像のオープニングとは裏腹に、中学生にもなって未だ単純で世間の狭い子供だった僕には、理解を超えた差別社会の不条理が渦巻いていて観るのがしんどい映画だった。

It was in my first year at jr. high, I guess; I vaguely remember. I saw the movie “To Kill a Mockingbird” in an extracurricular class of school. Contrary to its tranquil opening scene in monochrome, the main story– full of absurdity in the discriminatory society beyond my perception– was very heavy and hard on my mind, since I, as a jr. high student, still was merely a simple and naïve kid.

主人公スカウトの父親アティカスはそんな映画の中で、僕にも解りやすい実直な弁護士として描かれていた。父のいない僕には、黒人青年の冤罪を晴らすために法廷で理路整然と反証をあげる姿が頼もしく、そしてそんな父をもつスカウトが羨ましくもあった。

The protagonist Scout’s father Atticus, even in such a movie, was depicted straightforwardly as an honest attorney who even I could easily understand. Fatherless, I saw him as a dependable figure who was logically bringing up counterevidence in the court to prove a black youth’s innocence of false charge, and I also felt envious of Scout who had such a father.

映画化のあと、暮しの手帖社から小説の和訳版が出ていたけど、映画で植え付けられた「しんどさ」の所為か、ハーパー・リーの原作は読んでいない。そのころ母が購読していた『暮しの手帖』に『アラバマ物語』の広告が出ていて、表紙にはスカウトの写真が使われていた。ストーリーのしんどさとは裏腹に、映画の登場人物は魅力的だったから、その写真を夢中になって鉛筆で模写したのを今もはっきり思い出す。

Although there is a translated version of the novel published by Kurashinotecho company after the cinematization, I haven’t read the original story by Harper Lee probably because of the “hardship” implanted by the movie. My mother used to subscribed to “Kurashinotecho” (a Japanese counterpart of “Consumer Reports”) those days, and in the issues of the magazine was an ad of the novel “To Kill a Mockingbird” with a photo of Scout appeared on the cover of the paperback. I clearly recall today that I would eagerly facsimile her portrait, for the characters in the movie were so fascinating in spite of the hardship I suffer out of the movie.

絵には描かなかったけれど、理不尽な社会に立ち向かうアティカスの姿は僕の理想の大人として心のなかに刻まれることになる。原作を読まずに原作を語る資格は無いが、少なくともあの映画は僕に社会の理不尽さを教えてくれたし、謹厳実直なアティカスの姿はそれに呑み込まれない生き方をしたいと思わせてくれた、と言える。

Though I didn’t draw him, Atticus’s image was to be deeply engraved in my heart as an ideal adult. Knowing that I am not qualified to talk about the original novel without reading it, I can at least tell that I have learned from the movie how unjust this world is, and that serious and Atticus’s honest figure made me wish I would live so as not to be drowned in such injustice.

今日、ニュースでハーパー・リーによる続編の小説が出たことを知った。『アラバマ物語』の20年後、そこに描かれたあの正義の弁護士は年老いて、こともあろうに白人至上主義結社KKKに傾倒しているという。アメリカの「良心」(そんなものが実際に存在するかどうかは別にして)を象徴してきた、あのアティカスが。。。と、失望の声が上がっているという。

Today, I found out in a news article that the sequel novel by Harper Lee has just published. 20 years later since “To Kill a Mockingbird,” that righteous lawyer described in there allegedly has an esteem for KKK, a white supremacist cabal, of all things. “That Atticus… the one who embodied the “Conscience” of America (no matter if such a thing actually does exist)”– they are said to be dismayed with disappointment.

人が不変たり得ないのは百も承知。誰しも歳とともに頑迷になったり、ときには信条や人格まで変わってしまうこともあるのも分っている。だから、僕にはアティカスの変節自体に戸惑いはない。ただ、心の中では不変だと思っていた大切な礎石をひとつ失くしたような淋しさを覚える。

I am fully aware the fact that man cannot possibly be unchanging. I also know any one of us gets bigoted with age, and even the belief and the personality may degenerate in some cases. Seeing that, Atticus’s defection itself is not appalling to me. However, I cannot help feeling desolated as if I have lost one of the important base stones that I considered changeless in my mind.

『アラバマ物語』も未読の僕が、今すぐ続編『Go Set a Watchman』を読まないだろうが、もしも読んだら、50年前の映画に感じたのと同じ「しんどさ」を背負い込むことになるだろう。なにしろ続編の内容を伝えるニュースだけですらこんなことを書かせるほどなのだから、、、

Having not even read “To Kill a Mockingbird,” I probably won’t read “Go Set a Watchman” right away; but should I read it, I would incur the same “mental burden” as I felt in that movie fifty years ago, since even a mere piece of news reporting the contents of the sequel makes me write this much after all.

『Go Set a Watchman』は『アラバマ物語』(原題:”To Kill a Mockingbird”)より前に書かれていたという。アティカスの変節を逆順で描いたハーパー・リーはきっと非凡な作家なのだろうなと思う。

I hear “Go Set a Watchman” was written before “To Kill a Mockingbird.” Harper Lee, who wrote Atticus’s defection in the reverse-chronological order, must be an author of prodigy, I suppose.


追記(2023,11,17):ハーパー・リーが「アティカスの変節を逆順で描いた」のは、先に書かれた、つまりリーの初作(というかドラフト)である『Go Set a Watchman』が未成熟だと判断した編集者のテイ・ホホフが、スカウトの少女時代を物語にするよう提案したからだ、と当時のNewsweekの記事に出ていた。

postscript (2023,11,17): The reason for Harper Lee to write “Atticus’s defection in the reverse-chronological order” is that her maiden work (or more like a draft) “Go Set a Watchman” was regarded immature by the editor Tay Hohoff, who suggested Lee to instead write a story of Scout in her girlhood days, according to an article of the Newsweek then.

漫画や小説、エッセイなど出版される作品への編集者の影響力は相当大きく、編集者の力量が文字通り良くも悪くも作品の質まで決めてしまうほどだ。全てがそうだというわけではないが、名前の出ない共著者と言っても大袈裟ではない。ホホフについてはよく知らないが、Newsweekの記事を読む限り、かなり見識の高い編集者だったのだろう。それはホホフの関わらなかった、というか出版を許さなかった『Go Set a Watchman』が、その出版から8年後の現在ではもはや誰もその名を口にしなくなったことが逆に彼女の功績を際立たせている。

Editors’ voices in the works, such as manga, novels and essay, to be published are so influential that the quality of the works, for better or worse, literally depends on the editors’ competence. Although not in all the cases of course, it is no exaggeration to call editors the uncredited coauthors. I don’t know much of Hohoff but, as far as I read the Newsweek’s story, I think she was a considerably knowledgeable editor of talent. Her deed is shown in the fact that, in eight years after the publication of “Go Set a Watchman”, no body any more seems to talk about this novel that Hohoff didn’t take part in, or rather, that she didn’t allow to be published.

まあ、書かれた順、作品の出来はともかく「アティカスの変節を逆順で描いたハーパー・リーはきっと非凡な作家なのだろう」という僕の感想は変わらない。

Well, regardless of the sequence of writing or the quality of the works in any ways, my thought‐‐ “Harper Lee, who wrote Atticus’s defection in the reverse-chronological order, must be an author of prodigy”– has not and will not change.

http://ecx.images-amazon.com/images/I/51ut4yoE3mL.jpg


所詮は機械(AIも含めて)のやること。あてにしてはイカンな。

GoogleやDeepLの翻訳機能は最近とても進歩していて、特に後者はまるで人が書いた文章のような表現をしてくる。(ただし、たまに訳せない部分をすっ飛ばすこともある。その点、前者は生真面目に全てを訳すが、なんかぎこちない表現だったりして、一長一短があるが、、、)

これらのAIたちは言語を扱うときに「文法」を学んで応用しているわけではなく、ネット上にあふれる膨大な情報を収集した、いわゆるビッグデータをとてつもない処理能力で分析し、2つの言語間で対応する文やフレーズを抽出して、それなりに読みやすく加工しているにすぎない。

翻訳に特化しているわけではないが今流行りのChatGPTも然り。試験問題や宿題に対してとても賢そうな答えを書いてくれるのだが、まともな思考能力を備えた人がよく精査すると「当たり障りのない」回答でお茶を濁すような内容でしかないと言われる。詩や小説もそれなりの体裁で書けるけど、やはり心に沁みる作品を紡ぎ出すまでには至っていないそうだ。チェスや将棋はAIが人間を凌駕してしまって久しいが、今のところはChatGPTが創造性においてまだ一歩人には及ばないところに留まっている。(まあ、それも時間の問題かもしれないが、、、)

なので、世の中に多く出回っている情報の多くが間違っていればこれら自動翻訳もまともな答えを返してこないことになる。まあ、世間が間違った情報の流通を良しとはしないまでも、チェックもされないまま(ていうかチェックしようがないのだが)ネット上には玉石混淆の情報が溢れかえっているので、AIでなくてもどれが本当なのかよく判らないのが実情である。

追記)5年ほど前に同じくネットで流れている(だけでなく出版物にも出てくる)Paul Simonの歌詞の誤訳について書いたことがある。この後で引用する彼の曲とはまた別のものだが、明らかな誤訳が何の疑問も持たれないまま垂れ流されている状況だから、ネット情報頼りのAIなんぞコロッと騙されるのだろう。Wikipediaを丸引きする大学生と何も変わらないお粗末さ。いや、パラフレーズしてるだけAIのほうがまだマシか。。。

僕は英語の文章を書く機会があると、書き上げた自分の英文をまず自ら和訳してみる。ちゃんと母語の日本語で思考した内容と訳出した日本語に齟齬がないか確かめるためだ。ただし、その逆(つまり先に日本語で書き、英訳すること)はしない。なぜなら英語の語感が「翻訳調」になってしまい、英語話者にとって違和感のある文章になる恐れがあるからだ。もっとも、英語は僕の母語でないので、直接書いた英文が翻訳調よりもさらに稚拙なものになる可能性は大であるが、それもまた僕個人を表しているのだから隠してもしょうがない。

ただ、自分自身の和訳と平行して先に触れたGoogleやDeepLにも和訳をさせてみることはままある。2つの自動翻訳の毛色の違いを比較すると面白いし、さらに自分が考えていたことをより正確に訳出してくれることもないこともない。

が、多くの場合、こいつらあんまり頼りにしちゃいかんな、という感想を抱くことになる。最初に書いたように何かが抜けていたり、無様な表現だったりで違和感満載だったりするのだ。中学〜高校低学年レベルの文法知識があれば起こり得ないような間違い、あるいは完全に逆の意味をヌケヌケと出してくることも。

一例としてPaul Simonの「Bookends」の一節で、前から気になっていた誤訳を挙げておこう。「Bookends」は遠い過去を想いやる老人の独白のような小品で、時の流れをテーマにした曲がいくつも収められている同名のアルバムのタイトル曲だ。その一節とは:

Long ago . . . it must be . . .
I have a photograph
Preserve your memories
They’re all that’s left you (下線は筆者)

この下線部は、Googleでも、DeepLでも、さらにはChatGPTでさえも其々あなたに残ったのはそれらだけです」、「それがあなたに残されたすべて」、「それが残されたすべてです」と、あたかもyour memoriesの元になった事象や物が手元に残っているかのような表現になっている。

↑Google翻訳の画面
↑DeepL翻訳の画面
↑ChatGPTの画面(質問者が「HE」なのは、登録に使った僕のメアドの頭文字がそうなってるからで、他人のを引っぺがしてきた画像じゃないっす。

でも、ちょっと待て。「all that’s left you」が仮に「all that’s left to you」ならそうかも知れないが「to」は原文のどこにも無い。

AIたちが無いものを勝手に付け足した、と言うより、世間の和訳者(関連注、後述)が下線部を

「all that is left to (あるいは for) you」=「すべてあなたに残されたもの」あるいは「あなたに残されてものすべて」

誤解して、そこいら中に書きまくっているのに違いない。そんで、またそれを取り込んだAIによる自動(誤)翻訳を疑うこともなく鵜呑みにした人たちが、更にまた誤訳を拡散するという悪循環になっていると想像する。

注)ここでは、複数のmemoriesを受けたallは意味はともかく、形式上は集合的に単数扱いになっている。故にbe動詞は三人称単数形の「is」となる

では「to」も「for」も無く、「’s」が「is」でもないというなら、どう解釈するか。まず、この「’s」は「has」の短縮形あり、

「all that has left you」=「すべてあなたから去って行ったもの」

であることは明白。「She left me」=「彼女は俺を捨てた」とか「I left L.A.」=「僕はロスアンジェルスを発った」のようにleft(他動詞 leave)の目的語となっているものから「去る」という意味になる。

くどいようだがもう一度件の詩の一部を訳し直してみよう。

Preserve your memories
They’re all that’s left you

思い出は大切に心に留めておきなさい。
みんなもうあなたの元を去っていったものばかりなんだから。

このように、動詞 leave の異なる使い方と「’s」の取り違いで、意味が全く逆になるのだが、先述のように調べた3つのAIたちは揃いも揃って誤りを犯している。

上はほんの一例に過ぎない。「所詮この程度なのだ」と理解した上で納得して自動翻訳(ひいてはAI全般)を使っているならまだしも、自分が何をやっているのか解ってないまま、学校の宿題をさせてやろうなんてのは、怖いもの知らずもほどがある。(いや、学生がズルしたくなるのは、自分も心当たりがあるので仕方ないのかも知れないが、小中学校の英語の授業で「英会話の相手をAIにさせる」なんてことを文科省かどっかが言ってるとかいないとか、、、。学校の現場レベルでも教師が活用していると言っているのをメディアで見たが、寒気がするわ。)


関連注)歌詞の誤訳で思い出したこと。

半世紀以上も前の話だけど、ここで取り上げたのと同じPaul Simonの作品で「Baby Driver」というカーレースを題材にした曲の解説を中村とうようという評論家が収録LPのジャケットに書いていて、その中で彼は歌詞の一部を引用し次のように訳していた。(古い記憶だがだいたい正確だと思う)

My daddy was the family bassman ⇒ 親父は家族のバスの運転手

読んだ僕はまだ高校生だったけど吹き出さずにはいられなかった。

で、思った「こんな誤植はありえないから誤訳にちがいないんだけど、この人の英語力はこの程度なのだろう。そんな人がよくまあ僕の憧れのポール・サイモンの解説などやってくれたもんだ。」と。中村とうようは当時でも名のしれた音楽評論家だったし、その後は年とともにいわゆる大御所と呼ばれるような存在だった、らしい。が、もうあの瞬間からこの人への信頼も興味も一切なく、音楽関連の情報で名前を聞くことはあれど、知ったこっちゃないと目を背けるようになってしまった。また、青二才の高校生らしい思い上がりから音楽業界も底の浅いもんだな、とまあ、舐めきった見方で固まってしまった。

しかし、、、たったひとつの誤訳でここまで毛嫌いされたらたまったもんじゃないだろう。人を呪わば穴二つと言う声が聞こえてきそう、、、。ただ、ことわっておくがこれは高校生だった僕という個人の中村とうように対する感情的評価であって、彼の世間での評価や業績を否定するつもりはない。知ったこっちゃないだけの話。

ちなみに、Baby Driverのこの一節は以下のように解釈できる。(バスの運転手なんぞどこの話だ?WWW)

My daddy was the family bassman
親父はうちのベースマンき(つまり家族の寓意としてのバンドを土台から支えてるベース弾きだ。これを家族を乗せたバスの運転手というふうに捉えて「意訳」した、としたら大したものだけど、無理。W)
My mamma was an engineer
お袋はエンジニアさ(やはり裏方だが寓意ではなく、この一家は家族レーシングチームであることを示唆してる。あるいはメカニックよいうより、さらに裏方のサウンドエンジニアのことか?)
And I was born one dark gray morn
そんで薄暗く曇った朝、俺は生まれたんだ
With music coming in my ears
そんとき音楽が聴こえてた(この「音楽」はきっとエンジンの咆哮だろう)
In my ears
この耳にね

さて、翻ってAIについては、僕は中村とうようや彼の泳いだ業界ほどは嫌悪しているわけではない。彼のチェスや将棋のソフトのようにいずれは人間を凌駕して、翻訳だけでなく文章や画像の生成において(心理・心情のひだに触れる深層表現はともかく、表面上や形式的には)非の打ち所のない仕事をするようになるだろうと思う。それより、ここで書きたかったことは人の仕業の危うさのことだ。検証しようという態度もなく、AIという「権威」が示すご託宣をありがたがる風潮を見ると、もうええわ、と。


したら、また連鎖反応的にPaul Simonの「Sound of Silence」が頭をよぎった。(頭の中、Paul Simonばっかやなあ、、、WWW)

この曲の後半では

話すことなく語り合い、傾聴することなく聞き、決して声に出されることのない歌を書く人々がいて、そいつらに向かってせっかく「私」が「アホども、教えてやるからよく聴け。差し伸べた手を取れ」と言うも虚しく響くだけ。
しかも、そういう輩はみんな自分たちで拵えたネオンの(つまり虚飾にすぎない)神にかしずいているし、その煌めくネオンサインは「預言者のお告げが安宿や地下鉄の壁に書かれている」と警告するのだ。

ということが歌われる。(しかし今やLEDやレーザーの世の中。はたして「ネオンサイン」がわかるっかなぁ。。。)

僕がビビッときたのは、まともなコミュニケーションもできないアホどもが自分らででっちあげた神にひれ伏して、電気で光る怪しげなお告げに耳を傾ける、っていうところ。これがまるでAIをありがたがる今どきの風潮にダブっているんじゃね?

実態の伴わない電気のお告げなんざ、うらぶれた木賃宿とかションベン臭い地下道がお似合いなんだと。(笑)

原初、唄は託宣であり、唄い手は巫女やシャマンだったのだろう。何ならPaul Simonは60年も前にこの曲で今を言い当てた預言者だったのかも。知らんけど。




One Last Journey to My Mentor 1-2

The following article is a copy and its translated version of a Instagram/Facebook post that I wrote during my bike trip in Minnesota between Augst 31st. and September 3rd.– a short travel for visiting my former major professor.


It’s really scary to get overtaken by cars and trucks— especially by the huge 18-wheeler semis—on narrow country highways, though every single driver cautiously keeps distance when passing me.

車やトラックに追い抜かれるのは本当に怖い。狭い田舎の街道では巨大な18輪トレーラーが格段に恐ろしい。どのドライバーも通り過ぎるときは注意深く距離をとってくれはするんだけど。

This is not an 18-wheeler semi but is a dump truck, which is extremely massive anyway.
Wonder how a horse cart can survive and coexist with such a big truck on the country highway.
Failed to take a photo of the cart driver, who was a very young boy– like ten years old or so.