中東のオイル

ばったり会った知り合いのひーちゃんから「中東のオイル」持って帰って、と小瓶をもらった。

彼は茶目っ気で「ちゅうとう」と言っていたが、自分の名前「なかひがし」の駄洒落。生油のままサラダにでも魚にでもふりかけて、というので、帰宅途中で生春巻きと生食用サーモン(スモークしてないやつ)を買って帰った。直前に別の友人からは漬けたばっかりの自家製福神漬をもらっていたので、それを付け合わせにしてミッドナイト・ブレックファスト。

この繊細な竹箸はたまたま家にあった花脊美山荘のお箸。どんなに細かい粟粒でもひとつづつ摘める先の細さが美しい。ちなみに美山荘は草喰なかひがしの主人、中東のひーちゃんが生まれ育ち、修行をした実家。

かけるのは鹿児島の壺造り黒酢だけ。そこへいただいた山椒油をたっぷりと垂らす。柔らかい酢の酸味と爽やかな山椒の香りがたまらん。生春巻きに添えられたパクチーが山椒と喧嘩するかと思ったけど、米油の仲立で意外といける。そのうえ黒酢が鼻にツンと来ない。ルイベを解凍したようなサーモンの切り身も黒酢と山椒油との相性が非常に良い。(即製のマリネみたいな、、、)

 

付け合せにした福神漬けは友人が昨日漬けたばっかりなので味はまだこれから練れていくんだろうけど、なた豆のパリパリ感が半端ない。柔らかい生春巻きやサーモンの歯ざわりと対比して味わうとベスト。そこに壺造り黒酢の旨味と高級山椒油の香り。なんとも贅沢な夜食だった。

たぶん、酒飲みならビールとか欲しくなるんだろな。。。

 


懐かしい、いやぁ、懐かしい

夜更けて、鹿ヶ谷へ人を送った帰り、銀閣寺道を西へ向かっていたら客が帰って暖簾を仕舞った割烹の前にスズキの赤いツーシーターが止まっていた。

ひーちゃんの車だ。昔、僕が花脊に居た頃、彼はまだ大悲山の実家で修行中だった。近所に住む僕の友人で彼の従兄夫婦と一緒に、よく徹夜でトランプして遊び呆けたものだ。みんな若かったなあ、、、

その友人とは先日も花背八桝の松上げで会ったばかりだけど、ひーちゃんにはもう何年顔をあわせていなかっただろう。この珍しい車に乗っているのは彼しかいないから、これまでも鞍馬や大原の街道ですれ違うことは何度かあったが声のかけようもないし、彼は僕の車を知らないし、、、

ひーちゃんが店を構えてしばらくして、早くもとんでもない人気店になっていたのを僕は知らなかった。遅まきながら開店祝いの賑やかしにと、おふくろを連れ予約もなしで、昼と夜の席の合い間にノコノコ顔を出した。あの時は「よう来てくれはりました」と何も知らない僕とおふくろを、暖簾を仕舞った店に招じ入れて昼のコースをご馳走してくれた。それ以来だから20年にもなるか、、、

よく見ると車の中にひーちゃんが座っている。奥さんを待ってるのかな、とやり過ごしかけた。やっぱり懐かしくて車を止め、駆け寄ったら向こうも憶えていてくれて、やあやあとなった。

店の前でしばらく立ち話をして、まあ中へどうぞと言われたのだけど、もう片付けた後だろうから申し訳ないので遠慮し、そのま表で話をしていたら奥さんのきみ子さんも顔をだしてくれた。彼女も憶えていてくれた。(ほ、)

ひーちゃんから、お互い歳とりましたなぁ、と言われた。写真を見ると案外そうでもないように写っている。(閉店後なので店の暖簾は仕舞われているが、懐かしいからみんなで写真を撮ろうよと言うと、きみ子さんが「草喰なかひがし」の行灯を付けてくれた。写真を撮れば、後で僕が彼らと知り合いであることを見せびらかすだろうって、ちゃんと心得てる。宣伝上手と言いたいのではない。宣伝など要らない店だもん。)

きみ子さんから京都市少年合唱団の指導に尽力された高名な音楽教者の福澤昌彦先生が2年ほど前に亡くなられたと聞かされた。昔、彼女と僕は偶然にも福澤先生のもとで一緒に働いた同僚だった。また、偶然といえばトランプ遊びしたひーちゃんの従兄も福澤さんの教え子だったりして、、、とまあ、ひとしきり懐かしい話、歳をとると出る寂しい話をした。

帰る前にひーちゃんから「中東(ちゅうとう)のオイル」なるものを土産にもらった。パレスチナ・オリーブが頭に浮かんだ。なんで???(ちなみに、それは米油)。ラベルをみると「山椒油」とある。あ、そうか、「草喰なかひがし」特製オイルだもんね(^^;)。ヲイヲイ、文化人だとか海外の有名シェフなどそうそうたる客たちにもこのオヤジギャク飛ばしてるんか?長らく顔を合わさないうちに、雑誌やテレビで見るだけのちょっと雲の上の人みたいに思っていたけど、、、ふつーやん。よかった。

 

別れを告げ、車に乗って走り始めたらバックミラーにひーちゃんときみ子さんの手を振る姿が写ってた。

今度はちゃんと予約をして来よう。


それぞれの旅

ここ数年、夏が終わりに近づくと旅に出ていた。今年は早々とまだ寒いうちから四国八十八ヶ所の霊場を歩き遍路で回りたいという願望に取り憑かれていた。しかし思わぬ定期の仕事が入ったために、当面は延期ということにしておいた。1年や2年延ばしたとしてもまだまだ体力は残っているだろうし、望外の収入を旅の路銀に貯めておけばいいやね、と。

しかし、また日が少しずつ短くなるのを感じる季節になり、どっかと地に据えていたはずのお尻がムズムズし始める。週にたった一度の仕事なんぞ打っちゃって、御免っ!と一言いって人でなしをやればいいんだよ、という甘い誘いが聞こえて来る。寒くなる前に出かけないと、、、と季節に駆られるように旅の妄想が始まる。

妄想だけではない。ふと気づくとスマホやパソコンで具体的な旅の算段をやっている。しかもそれは何故か四国遍路ではなく、去年行った北欧のトレッキングトレイルKungsledenへの回帰。あの旅で中学生の時に夢見た憧れのトレイルとの邂逅を果たしただけでなく、旅の動機となった映画『太陽のかけら(原題:Kungsleden)』に散りばめられた謎が、半世紀を経て旅路を辿る中で次々に解けたのだから、かの地への想いは十分に燃え尽きていたはず、なのに。2016-09-03-14-06-08

結局は今日まで人でなしの一言は切り出せず、スマホのアプリで見つけた関空⇔ストックホルム往復7万円という格安航空券も予約しないまま、9月下旬には全ての山小屋が閉鎖されるので丸ひと月かかるKungsledenの旅は幻夢に終わろうとしている。(まだ「今すぐ」なら間に合うぞ、という声も耳をよぎるのだが、、、)

そんな時、昨年来堺町画廊で行われてきた「民映研の映画上映会」で知り合った正木隆之さんの本『ちゃりんこ日本縦断』(副題:アクティブシニアの小さな冒険)が届いた。正木さんは長年の勤めを退職して、新たに起業する前の「垢落とし」として日本縦断自転車旅を敢行した人で、執筆から編集、装丁まで1人でこなされたとのこと。パソコンよる組版もそのためにIndesingを勉強して仕上げられたという。人当たりの良いやさしいオジサンの正木さんだが、見かけによらぬ(すんません、、、)情熱の持ち主なんだろうな。

まだ読み始めたばかりだが本の出来もすばらしい。「日本縦断」、「自転車」、「本の自力編集」、「自費出版」という頑張りの原動力はその情熱なのだろうけど、本の中身は好奇心に溢れた人らしいたくさんの写真とともに、自分自身をよく知る還暦過ぎた人ならではの適度に脱力した旅の体験談が淡々と描かれている。読み始めたばかりだが、ページをめくる度になんとも旅心をくすぐられる。

正木さんの本を注文してから届くまでの間に、東京の友人Tさんから彼のチベットでのフィールドワークとその後の研究の集大成の論文を読んで欲しいと連絡があり、ほどなくPDFファイルがメールで送られてきた。迂闊にも正木さんの本が間もなく届くことを失念していて、すぐダウンロードして読むよと気軽に返事してしまった。

しかし、Tさんの論文は本文だけでも5万文字と10ページ及ぶ注釈、さらに地図などの図表と現地の写真多数。ここに詳しくは書かないが、彼が長年断続的に行ってきた広範囲にわたる彼のチベット単独踏査行は標高4〜5000メートルの無人の荒野を補給なしに歩くなどサバイバルの極限と言っても過言ではない凄まじさだし、日本での文献調査も地理学書や地図は言うに及ばず仏典を含む専門書などを多岐にわたり、それらを深く読み込み考察してまとめた論文はフォールドワークに裏打ちされた圧巻の内容である。しかもTさんはその研究内容を弛まず吟味し続けているのだ。論文はこの数年の間に何度も改稿され、僕も節目には読ませてもらってきた。そして今回もまた感想や意見を求められたというわけだ。

だから、先にTさんの濃厚かつ膨大な論文を読んだらその後に正木さんの旅行記を読むエネルギーは残らない恐れがある。申し訳ないけどTさんには、後回しにするからと詫びを入れておいた。とまれ、期せずして全く性質も分量も異なる2つの「旅行記」を読むことになったが、読み耽って僕の旅行熱を冷ますにはちょうどいい時に来てくれたものだ。(逆効果の恐れも大なのだけど、、、)


追記:正木さんにTさんの論文のことを書いて知らせたら、ご自分の著書と比較して「満漢全席とお茶漬け」と表現された。「軽さだけがとりえ」、「ミントの効いたシャーベットくらい爽やかだったらよかったのだけど」とも。猫舌の僕には冷ご飯に鮭や海苔や霰やワサビを載せて冷茶をぶっかけた茶漬けが軽く爽やかで何よりも美味しい。正木さんの文章はまさにそんな細やかな具が散りばめられた茶漬けのように軽く、ミントシャーベットのように爽やかだ。

でも、その絶妙な喩えから窺えるように文章の具としての個々の表現は吟味されエスプリに満ちているし、紙面の半分以上を占める豊富な写真もなかなか味わい深いので、ついつい読みながら妄想の世界を漂ってしまう。お茶漬けのようにサラサラっと掻き込んではその美味しさを牛のように反芻していると思ったほど早くは読み進まない。これは望外に楽しい手強さだ。はたしてTさんの大論文に行く着のはいつになるやら。


追記の追記:Tさんとのやり取りで、正木さんの『ちゃりんこ日本縦断』の写真目次ページに使われた見開きの写真(海沿いの原野の中を走る一本の道路)を見て、これはサロベツ原野だろうか、猿払原野だろうか、という話になった。これが北海道のどこかであろうということだけを言い当てるのは、さほど難しい話ではないのだが、、、

本を手にしていないTさんは、僕が送った写真(上)から目次の端にかすかに写っている九州、中国、四国 近畿、北海道、東北、北陸、京都へ、と並んだ地方名から走行ルートやフェリーの航路を想定し、写真に写った道路の規格と彼の記憶と比較した考察をメールで送ってくれた。多分、かなりの時間を割いて彼の頭の中で旅をしたことだろう(いや、地理の専門家で博識、日本中を歩き回った彼にしたら一瞬のことかもしれないな)。読んでいるこちらも思わず彼の「その旅」に引き込まれる。普通の人には「何も写っていない」写真1枚(正確にはその写真が載った本の目次の写真)でこんなに楽しめて、また楽しませてくれる友人がいてくれて嬉しい。僕にも何かしら似たところがあるので、正木さんの本にも「手こずる」ことになるのは見え見えだ。

ちなみに、Tさんと正木さんには日本縦断という共通点がある。ただしTさんは歩いて。


広河原の松上げと久多の花笠踊り(その2)

松上げとヤッサ踊り、ヤッサコサイ踊りにすっかり魅了されて、広河原を離れた時には午後10時を大きく回っていた。久多まで10キロメートル少々だが峠越えの山道なので20分はかかる。花笠踊り一行が久多上の宮から大川神社を経て最後の志古淵神社に着く時間がよく判らない。間に合うだろうか。

久多花笠踊り
久多について

左京区北部3地区(花脊・広河原・久多)は京都市内とはいうものの市街地から何十キロメートルも離れていて、山間僻地を絵に書いたようなところだ。来る時に通った花脊と広河原の2地区は、大きく京都府下まで迂回するが最終的に京都盆地に流れ込む大堰川(桂川)の源流域だが、久多は、京都北山(丹波山地東部)の東端と比良山系の西面に沿って北へ流れ高島市で琵琶湖に注ぎ込む安曇川の流域に属している。

久多峠: 能見(広河原)方面から久多方面に向かう。Fiat500は広河原方向に向いている。(別の日に撮影)

久多は安曇川水系針畑川の支流久多川沿いの集落で、古くから交流が深かった針畑と共にかつては近江国朽木藩領であったが、現在はなぜか針畑は滋賀、久多は京都に別れている。安曇川の最上流部にある百井、大見、尾越の集落も同様に京都に属しているのも不思議だ。これらの集落をはじめ、昔から豊富な木材を伐採し、筏を組んで琵琶湖へ搬出していた安曇川上流の各地には、筏流しと河童にまつわる伝説の「シコブチ神」を祀る土着信仰がある。久多の志古淵神社は主要な七シコブチのひとつに数えられる。現在の行政区分がどうであれ久多は近江の経済・文化圏に属すると考えられる。

久多:志古淵神社(Google Street View )

ところで、先程見てきたばかりの広河原の松上げと同様に、久多でも小さいながら「チャチャンコ」と呼ばれる松上げが行われている。火伏せをつかさどる愛宕権現に奉納される松上げは花脊・広河原だけでなく、更に北の佐々里峠(中央分水嶺)を越えたところに発して日本海に注ぐ由良川の上流域にもあり、またその東側に位置する若狭の旧遠敷郡の集落にも見られるが、総じて北山(丹波山地)の伝統行事であるといえる。

久多は、火の神である愛宕さんと、安曇川上流域の土着信仰で水の神であるシコブチさんが出会う不思議な場所だ。

花笠踊り

久多の花笠踊りはどうやら他の地域では見られない久多独特のもののようで、国の重要無形民俗文化財に指定されている。なのに京都に住んでいても知る人は殆どいない。

全国には多様な花笠踊りがあり、その多くは中世の「風流踊り」を源に持つという。風流踊りは着飾った男女が音曲に合わせて賑やかに踊ったらしく、当時としては「ノリ」の良いテンポやリズムに合わせて楽しく身振り手振りする踊りだったのだろう。

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風流踊・水掛祝図屏風(十念寺 蔵) 久多の花笠同様に、踊り手の被り物には草花が飾られ、垂幕が下がっている。四角や六角形の枠も花笠の灯籠部分との関連を伺わせる。

久多の花笠踊りはその「賑やか」な風流踊りの様子を良く残しているのだというが、手の込んだ造花を飾った花笠(灯籠)の派手やかさとは裏腹に、今の人から見れば唄や踊りの振りはまったく賑やかとはいえない。踊り手はゆったりとした唄に合わせて、ゆらりゆらりと揺れているだけだ。

風流踊りからは多くの芸能(念仏踊、盆踊り、雨乞踊、虫送り、太鼓踊、浮立、剣舞、鹿踊り、ある種の獅子舞に至るまで)が派生したとされる。時代が進み世の中が忙しくなるに連れて、これらの踊りは元になった風流踊より増々賑やかに、アップテンポに進化してきたはずだ。

写真: やすらい笠
上賀茂やすらい祭( photo by juraihelm) 風流踊りを彷彿とさせるものにやすらい祭がある。今宮神社や玄武神社など京都市北部に数か所残るやすらい祭では、縁垂れの付いた笠の上に草花が飾られ、その傍で鉦と太鼓を叩きながら動きの大きい踊りが踊られる。また時代祭の「室町洛中風俗列」にも飾り立てた笠と踊りの風流踊が登場するが、明治以降に「再現」されたもので、その正確性はさだかではない。

「賑やか」とされた原初の風流踊りに近いと言われる久多花笠踊りのしめやかな唄や振りを目の当たりにすると、中世の人たちの音楽や舞踊のテンポが、ひいては彼らの生活の中で時の流れる速さが、いかに現代とは違っていたかを覗い知ることになる。つまり、花笠踊りの夜、久多には本当にゆったりと「風流」な中世の時間が流れているのだ。

志古淵神社境内

つづら折れの山道を登り久多峠を越えて、10時半ごろ久多宮の町にある志古淵神社に到着。車道からほの暗い境内に花笠の揺れるのが見える。間に合った。少し先にある友人宅の駐車場に車を駐めて、駆け足で神社へ向かう。

唄い手の声を聴きながら鳥居をくぐって、10メートルか20メートル四方ほどの狭い境内に入ると、浴衣掛けに兵児帯姿の男の人たちが十数人、ロウソクの明かりが入った行灯状の花笠を持って櫓の周りで踊っている。ていうか、手振りも足運びもなく社殿に向かって立ったままひたすらゆーるりと揺れている。

踊り手たちが向かって立っている本殿には灯明がともされていて、その前の神楽殿に白い狩衣に烏帽子姿の神主が二人、じっと正座して踊りを見下ろしている。彼らは「神殿(こうどの)」と呼ばれ、素人の持ち回り役らしく踊り終盤での挨拶のおぼつかなさが微笑ましい。

花笠の向こうに神殿が座して踊りを見下ろしている

曲目が変わると、踊り手たちは櫓を囲むように輪になって回り始める。身振りも少し大きくなり、揺れるだけでなく膝を折るようにして上下したり、その場で回転したり、いずれにしてもゆっくりではあるけれど、少し踊りという概念に近づいてくる。

境内には踊りを取り囲むように人垣ができているが、それでもおそらく100人もいないのではないか。地元の女性が鳥居下のテントで飲み物を売っているだけで、商魂たくましいテキ屋さんも流石にここまでは来ない。観光商業化とはほとんど無縁の祭りだ。立って観ている人たちにもお神酒とアテのスルメが振る舞われる。

疲れたので境内の隅の長椅子に腰掛け、すぐ隣で休んでいた浴衣姿で祭りの参加者とおぼしき地元の方に、花笠踊りについてあれこれ訊くが、気さくに答えてもらえる。いつか観光バスで人が押しかけるようになったらこうはいかなくなる。ていうか、狭い境内に入り切らなくなって、「風流」もへったくれもなくなってしまうだろうな。(ここで嬉しそうに書いている事に矛盾と後ろめたさを感じるが、、、)

祭りの周辺

街から遠い久多は地場産業がなく、炭焼きは滅び、シコブチさんに護られた筏の時代もとうに去って林業は青息吐息。過疎化が進み、住民票は置いてあっても勤めのために集落を離れている人も多くなっている。昔は8月に入ってから各町ごとに「花宿」と呼ばれる家で男衆が集まって一から十まで花笠を作ったものだが、人が減ってそれも難しくなったと、隣に居た人が話してくれる。今は各自の家でめいめいに部品を作っておき、日を決めて花宿で一気に部品を組み合わせるというのが多いそうだ。そう言う彼の花笠は「忙しいので6月には出来上がっていた」とのこと。祭りも見えない所で変化を余儀なくされていたのだった。

飾りの造花も切り絵も、踊り手の自作。男だけの仕事になっている。

そうやって苦労して花笠踊りは維持されている。今のところ祭りを観光化して久多の経済に寄与させようという動きは見られないが、、、もしそうなったとしても、それは住人の選択。部外者の僕には何も言う資格が無い。苦労を偲びながら花笠踊りがこのままで続くことをただ願うのみ。

ちなみに、境内中央の櫓は花笠踊りと何の関係もないように見える。隣のいる祭りの人に訊くと、花笠踊りの男衆が北から上の宮、大川神社を巡って志古淵神社に来る前に女性たちだけで盆踊りを踊るための櫓なのだとか。

その人によると、この祭りは久多の上と下に分かれて唄と踊りと花笠の見事さを競い合うものだが、花笠の美しさは男が女性の気を惹くためのもので、例えば鳥が綺麗な羽を広げて求愛のディスプレイをするようなものなんだとか。その真偽は判らないが、、、。この祭りは花笠を作るのもそれを持って踊るのも男衆。祭りで出番のない女衆が男衆のいない間に盆踊りを踊るというのは、広河原で見た松上げを行う男衆とヤッサを踊って待つ女衆の関係をちょっと思い起こさせる話だし、古い時代の盆踊りが男女の出会いや関係を持つきっかけであったこととも符合する。

同行の友人は女性だけど、花宿で花笠を作るところを見せてもらうことは可能かも尋ねてみると「相撲の土俵のようなことはないから大丈夫」とのこと。しめ縄で結界を張った神聖な松上げの灯籠木場と、砕いて言えばナンパの道具である花笠との違いなのかな。そして「普段から女の人の助けなしには、手間隙のかかる花笠は作れないし、いろんな準備が必要な祭りもできないよ」という話だ。それがたまたま尋ねた人固有の考えなのか、久多の男共通の認識なのか知らないが、実際そうなのだろう。

話を聞いているあいだも踊りはゆらゆらと続くが、11時半を回る頃、特別な儀式もなく流れ解散のように花笠踊りは終わり、僕らも花脊方面に戻らず安曇川から滋賀途中、大原回りで京都に戻る。


広河原の松上げと久多の花笠踊り(その1)

先日の花脊八桝の松上げに続いて、昨夜(8/24)京都市最北端の広河原でも松上げがあった。また、広河原から峠を一つ越えた久多では同じ時刻に花笠踊りが行われていた。昨日は午後から、京都市内に住みながら松上げどころか左京区北部の3地区(花脊・広河原・久多)は初めてという知り合いと連れだって、先ずは花脊の大悲山峰定寺にお参りしてから、広河原の松上げ、さらに久多の花笠踊りをハシゴして回った。

欲張りすぎたために日付が変わって帰宅した時には脳ミソがほぼ飽和していて、とてもブログを書ける状態ではなかった。。。思い返せば、帰りの車中で友人と交わした会話も、痺れた頭に話題がどっ散らかって収拾のつかないものだった。。。

今もまだ整理できていないが、とりあえず写真と動画を上げておこうと思う。取りとめなく書くので長くなりそう。松上げと花笠踊りは別けようと思う。

松上げ

広河原の松上げそのものは八桝同様に、灯籠木(トロ木)場と呼ばれる川沿いの広場に20メートルもある大松明(灯籠木)を立て、その上に向かって男衆が競うように小さな松明を投げ上げて火を点けるという、火伏せ(防火)の愛宕信仰に関わる行事だ。

だが広河原のそれでは、無事点火して最後に地上へ倒したトロ木の火にさらに藁を焚べ燃え立たせ、そこに向かって松上げ参加者した男衆が突進し、長い竿で炎を掻き上げる「突っ込み」を繰り返す。きっと先頭の人は熱くて必死の覚悟でやっているのだろうが、対岸から見ているとやんちゃなオトナの豪快な火遊びにも見える。

観音堂の輪踊り

僕と友人は突っ込みが全て終わる前に、灯籠木場からさらに奥へ歩いて数分のところにある観音堂へ向かう。松上げそのものは完全に男の祭りなのだが、男衆たちが松を上げ、突っ込みの火遊びをしているあいだ中、観音堂では松上げに参加できない女衆が老いも若きも輪になって「ヤッサ踊り」を踊っている。(僕達は見逃したのだが、危険な祭りの無事を祈るためだろうか松上げが始まる前に観音堂で女衆の念仏があるそうだ。)

未確認のネット情報だけど、ヤッサ踊りの謂れは「坊さんに叶わぬ恋をした娘の心情を表したもの」とか。鳴り物なしで唄うおばあさんのか細い声に合わせて、下駄で木の床を踏み鳴らして腰を曲げ、うつむき加減に黙々踊る女集の姿を見ていると、さもありなんという感じがしないでもない。(下の動画)

ヤッサ⇒ヤッサコサイ(トランジション)

ヤッサ踊りの最中に、遠くからドン、カン、ドン、カン、、、という太鼓と鉦の音に乗って朗々とした伊勢節*の唄声が聞こえてくる。やがて、松上げを終えた男衆の隊列が提灯を掲げ、ゆっくりと足を踏みしめながら意気揚々と観音堂や向かってくる。
(*これまで「伊勢音頭」と書いてきたが、広河原の松上げ保存会では「伊勢節」と表記している。違いがよく判らないので以降は後者にする)

一方、堂の中では女たちが男たちの到来を待ちわびるように夢中でヤッサを踊り続ける。おばあさんの唄声に合わせて床を踏み鳴らすヤッサ踊りの下駄の音に、鉦・太鼓の単調な音に合わせて唄う男衆の伊勢節の唄声が混じり合っても、隊列の先頭が観音堂の框(かまち)をまたぐ寸前まで女衆は踊りをやめない。

しかし、男衆が足を踏み入れた途端、観音堂は本当にスムーズに伊勢節の世界に切り替わる(下の動画1分10秒付近)。女衆が周囲に退いて手拍子で迎える中を、隊列が堂内を一回りして太鼓が中央に下ろされてからも、伊勢節唄う男衆の輪はしばらく回り続ける。いつの間にか男衆も手拍子を打っている。

ところが、何かの〆があるわけでもないのに突如として唄が変わりヤッサコサイ踊りに移行する(動画3分40秒付近)。そして気がつくとそれまで周囲で手拍子を打っていた女たちもいつの間にか男たちの輪に入って踊っている。

ヤッサコサイになっても始めのうちは、その前のゆったりとした伊勢節のテンポのまま踊られる。そのうちに少しずつテンポが上がり、床を蹴るように踏み鳴らすステップもだんだんと軽快になってくる。男女入り混じって楽しそうにヤッサコサイ踊りを踊る人たちの高揚感が観音堂の外から覗いているだけのこちらにも伝わってくる(上下の動画)。(この後さらに「これあねさん」という踊りもあって夜遅くまで祭りは続く)

松上げの祭りは愛宕信仰に端を発すると謂われるが、広河原の一連の行事は盆の送り火でもあり、ヤッサとヤッサコサイ、これあねさんは盆踊りと言っても差し支えないと思う。男が外で体を張って火祭りを行い、女は堂の中で踊りながら帰りを待つ。無事に行事を終えた男衆の隊列が到着するときの様子、女衆の迎え方、その後の踊りの内容の切り替わりやテンポの変化は、下手な演出など足元にも及ばない、伝統の中で培われた見事なトランジションだと思う。この男女交流の流れと足を踏み鳴らす踊りは、古代の性エネルギーの開放手段だった歌垣やその後に合流した踏歌の面影が今に残っているのではないだろうか。

踊りはまだまだ夜半まで続くが、久多の花笠踊りが終わってしまう前に少なくとも最後の志古淵社に着けるよう、これあねさんを見ぬまま心引かれつつ広河原を後にした。