「Kungsleden」カテゴリーアーカイブ

頚椎前方固定術で入院 その2(手術から退院)

昨年12月に急激に悪化した手の痺れ等の原因を取り除くために、2月14日から入院したことは前回書いた。

明けて15日、朝食抜きで午前中に点滴が始まった。さらに午後一番に手術開始のため昼食も当然なし。腹を空かせて戦に臨むかなりトホホな心境。

1時からの予定が30分押しになる。早くやってよ〜。手術が待ち遠しい訳じゃない。できることなら回避したいが、長く放置すればするほど脊髄や神経根にダメージが残る。治るものも治らなくなる。腹減ったなあ、、、とか思ってるうちにストレッチャーがお迎えに来た。

手術室に入る前に、この世の見納めになるかもしれない景色を眺めておこうとキョロキョロしていたら看護師さんから、ここは舞台裏の楽屋だから物置きみたいに散らかってるんで見ちゃダメよ、とジョークが飛ぶ。舞踏やってる友人の手伝いで名古屋大須の小劇場の楽屋で寝泊まりしたとか、京都の伝説的ストリップ劇場DX東寺の踊り子さんの楽屋を訪ねたことがあるけど、こちらは全然整然としてますな、とかなんとか、しょーもない返しかできない。余裕ないな。

位置について、オペの機械やランプを見上げていたら、麻酔医の方が自己紹介してくれた。間をおかず、では麻酔を入れますからね〜、、、で暗転。

目が醒めたのは翌日の朝。コロナ禍の折、ここのようなあまり大きくない病院は術後の患者ケアにマンパワーや設備リソースを割けないので、通常のように直ぐに麻酔から覚醒させ、酸素と痰のチューブを抜いて特別な回復室に入れるということはしないからね、と主治医から言われていたので特段驚きはない。それでも、個室ではないにしても、ナースステーションの直ぐ前の部屋で、目を開けたら直ぐに看護師がきてくれた。

首の左前を数センチ切ってるのだが痛みは全くない。全く触覚がなかった指先がなんかチリチリするんで、指同士擦り合わせてみたら、100%ではないにしても触っている感触が戻っていた。おおっ!手術成功じゃん!

首の装具は、アメリカ製のVistaという。装着が楽で、つけ心地も良い。顎のせの高さはダイヤル調整式。非常によく考えられ、作られている。十年前の手術で使ったものを押入れの奥から引っ張り出して使ってる。パッドはさすがいにウレタンが加水分解してたんで交換した。

執刀医の池永稔医師は15年前の腰椎脊柱管狭窄の内視鏡下手術と10年前の(今回と同じ)頚椎前方固定術の2回、切ってもらってるので何の不安もない。むしろ、頚椎と脊髄の故障から下手すれば全身麻痺にもなりかねない不安から解放されたのに、感動が足りなくね?と自分で突っ込んでるほど、池永さんには信頼を寄せている。

ともあれ手術は終わり、無事目が覚めて、そうこうするうちに昼になったら、何と飯が出てきた。いわゆる普通の病人食でめっちゃ美味そうとは思わないが、腹は減っているんで、唾液が出る。ところが、自分の唾ですらゴックンできない。これではお粥も無理じゃない。

嚥下ができない理由は、数時間の手術中に頚椎を前方から露出させるために首の中央にある気管と食堂をドッコイショと横に押し退けていたことで一時的に喉周辺の器官に麻痺が起きてること、さらにそこに炎症も加わり、呑み込むという行為をコントロールできなくなったためだ。

体を起こした状態では液体はことごとく気管に流れ込み、激しくむせかえる。飲食どころではない。完全に仰向けに寝て重力で喉の奥にある咽喉に落とし込めばむせることはない。それでも、水もお粥も食道にはいろうとしない。めっちゃ痛いが、無理に咀嚼、嚥下を行おうとするとせっかく咽喉まで行ったのに咽喉盖が閉じてないので気管へ逆流して、また激しく咳き込む。そこで、農道的な嚥下を諦めて、咽喉に溜まった食物を次に新たに送り込む食物で押し下げるという「芸当」を発明した。

まず、仰向けでお粥を喉に流し込む。お粥は気管に入らず、かといって半詰まりの食堂にも行かず、咽喉に溜まる。

そのまま、次のお粥をスプーンで流し込むと、当然、咽喉から溢れて気管に入りそうになる。

その瞬間を感知したら、口を閉じたまま肺から空気を鼻に抜くように吐くと、咽喉蓋辺りのお粥は押し出されて喉と鼻の境目の軟口蓋(ノドチンコのあるあたり)まで移動する。強すぎると「鼻から牛乳〜♪」みたいにみっともないことになるし、鼻も痛くなる。

そうこしていると、咽喉に溜まっていたお粥は食道のわずかな隙間から少しずつ胃のほうへ移動を始める。軟口蓋のあるあたりの背中側の壁にへばり付いていた二口目のお粥も少しずつ咽喉へと流れる。

という、誤嚥性肺炎と鼻から牛乳の狭間でのせめぎ合いをやること2時間。術後最初の食事に出されたものを食べ切った。(正確には、パサパサした魚の切り身はこの芸当が効かなかったので残したが、、、)

この嚥下障害は単に腫れているだけだから、日にち薬で、今日で術後1週間目だが、すでにほとんど正常な嚥下ができるまでになってきた。まだ大きな塊は呑み込むのに苦労するが、しっかり咀嚼しておけば問題ない。3日ほど前から、自販機でキリンレモン強炭酸無糖を買って飲んでみたが、炭酸ガスでえらいこっちゃ、になるかと思いきや、よく冷えた飲み物は腫れた喉に気持ちよく、炭酸の刺激も咽喉蓋をひき締めるのか、普通のお茶より上手く飲める。翌日、売けれていて残念。みんなこれが良いのを知ってるのかな。それとも消毒アルコールと混ぜて闇酎ハイ作ってるのか?(笑)

以前の首切り手術では、C5麻痺という腕が動かなくなる合併症が出たため、抜糸までの2週間は病院に留め置かれた。今回も、一応2週間を退院の目処に、傷や炎症、感染などの状態次第ではもっと、と言われていた。

手術直後は病棟備え付けの病衣を着さされたが、あとは自前のシャツとジャージのパンツで過ごしてる。みんな、なんでパジャマなんだろう?

ところが、執刀が上手なのか、僕の体が異常なのか、傷は全く痛まない。前回も首の傷は痛まなかった。それより自分の腸骨(骨盤)から取った骨のブロックを植え込んだがその傷の方が痛かった。この十年の医学の進歩で人工骨が使えるようになって余分の切開もしてないし、ほんとに切ったの?と思うほど。喉の痛みの方が辛い。

その喉の痛みも、嚥下障害も、日を追って改善してきた時に、担当看護師から退院の希望日を聞かれた。まだ術後5日めなんですけど、、、。それに、執刀医と同じく外科医である病院の理事長も毎日来るけど退院の話はしていないから、想定外だった。

それが、昨日(術後6日目)に理事長が来てくれて、今夜は池永さんが来る日だから、外来診察後に診てもらい、OKが出たら明日退院ですね、と。池永さんは、寒邪を丁寧に診るし、説明もしっかりしてくれる上に、質問したらしただけ、また詳細ね答えてくれるんで、とてもありがたく、それだからこそ15年前に6軒の病院を回って会った医者から彼を選んだんだけど、、、贅沢な問題だけど、診察に時間をかけるから、予約時間から2時間くらい待たされることもある。

今回の入院の見回りで池永さんが1回目に来てくれたのは夜中の12時だったらしい。隣のベッドの患者さんはしっかり起きていて、話をしたらしいが、僕はうっかり眠りこけていたから、起こさずにおいてくれたらしい。いやいや、話を聞きたかった。そんで理事長にもし寝ていても、起こしてほしい旨頼んでおいた。

さて、9時の消灯時間が来て、あと3時間くらいはYoutubeでも観ながら待とうか、とベッド上でゴソゴソしていたら、な、な、なんと9時半に池永さんがやってきた。「痺れ、痛み、ありませんか?今日撮ったレントゲン、問題ないです。じゃ明日退院ということで、、、。首の装具、しっかり着けておいてくださいね。」以上。あっけなく退院決定。

本当は根掘り葉掘り、病気のこと聞きたかった。しかし、他の患者も待っているだろうし、何より、こんなに早く診療が終わるのは珍しいから、いつ寝てるのか休んでるのかわからない、激務の医者にはこういうひは是非とも早く帰って休んで欲しいと思った。

てな訳で、朝が来たらいよいよ退院。またKungusledenで使ったバックパックに一切合切詰め込んで帰途につく。1週間と1日のショートバケーションを終えることになる。


便所ブラシが台所ブラシに変身!

何年か前にスウェーデン北部のKungsledenをトレッキングしたとき、山小屋のキッチンに備え付けられていた柄付きの食器洗いブラシが物珍しく、なんだか便所ブラシみたいだな、というあまり相応しくない連想をした。でも、山小屋の少ない汲み置き水で確実に汚れを落とし、且つブラシを持つ手を濡らさずに済むという合理性には感心した。

家に帰ってから百均でヘッドの小さい手頃な便所ブラシを見つけ、長すぎる柄を切り詰めて使ってみたら、これが全くスウェーデンのと同じ使い心地。その記事はこちら。もうあれから5年も経つんだ、、、。

2016-11-01-18-09-26

それが、先日、ポッキリ折れてしまった。これまでも折れて修理したことはあるけど、今度は首のところなので力がかかり修理しても長くは持たないだろうと、新調することに。

また百均で似たようなブラシを買って、切断部分をバーナーで溶かして溶接。前回は柄の中に木の棒を入れて補強したが、今回は余った柄をバーナーでで溶かして柄の窪みに流し込んで固めた。

プラスチックを炙って溶かす時に出る煤が混ざり、あまり美しくない仕上がりだけど、まあこんなもんでしょう。

早速使ってみたが、違和感なく食器洗いができた。

5年前は、探しても似たようなものはほとんどなく、スウェーデン王室御用達みたいなこと書いてるサイトが売ってただけ。それはもうサイトごとなくなっているが、そんかし、同じような形状、機能の食器洗いブラシは幾つか見つかるようになった。中でも、IKEAの「ANTAGEN アンターゲン」という食器洗いブラシは5色もあって、価格は1本たったの89円。な、なんじゃ?!!! 百均より安いやん。ただ、通販対応は内容だから、大阪や神戸のIKEA実店舗まで買いに行ったら幾らになるんかな。(Amazonとかでは売ってるが、同じものが5本セット1100円って、ボッタクリやろ。しかも、5本も要らんし)

ま、負け惜しみじゃないけど、この百均の便所ブラシ-turned-into-台所ブラシのブラシヘッド部分の大きさと形状が食器洗いに絶妙にマッチする。また、あと5年ほど持ちそうだし、当分IKEAのアンターゲンは要らんな。。。(ただ、このヤラシイ桃色は何とかならんかね。。。買い替えたい)


オスロを去る日に思う
(投稿は一週間後だけど。
しかも翻訳は一年後だし、、、)

去年、英語で書いた日記を翻訳してみた。和訳は難しいなあ、、、

ほんの10日前までスウェーデン北部高地で、KungsledenのU字谷の底に延びる小径を辿っていた。

それが今は、北海に溺れた無数のU字谷フィヨルドの国、ここノルウェーで岸辺に座って海を眺め、小舟を漕ぎ、クルーズ船に乗っている。

そのどちらも同じだけ楽しんできた。

先日、ロフォーテン諸島にいた時のこと、日がな一日iPadにへばり付いて何もしない僕を見かねて、年老いたホステルの主人が、彼の小舟に乗って一人で沖に漕ぎ出してみろよと言ってくれた。「今行かないでどうするんだ、天気はいいし海はベタ凪なのにこれ以上何を望む?何をグズグズしてるんだ?」と。

Kungsledenのある場所で幅1kmもある湖でのこと。ボートが3艘用意されていて、どちらかの岸には1艘しか置かれていないことになる。はたして僕は運悪く1艘の側に到着してしまった。常に湖の両岸にそれぞれ最低1艘のボートが置かれるためには、一度渡って対岸の1艘を曳いて戻り、それを残して今一度対岸へ回漕ぎ渡るはめになる。あれ以来、ボートはうんざりだった。

一度目は岸辺でモーターボートを待っている老人たちが寒さに震えていると対岸の小屋の主人に伝えるため大急ぎで、二度目は余分のボートを1艘曳き、待っている人にモーターボートは来ないと伝えるため、三度目は二人の老人カップルとバックパックを満載して、横風とうねる波を越えて必死で漕いだ。最後の接岸後、浜に残した自分のバックパックを持ち上げるのもやっとの握力しか残っていなかった。人生を終えるまで金輪際とは言わないまでも、もうボートは漕がないぞと思ったのだった。

にも拘らず、主人のアドバイス、いやもうほとんど命令を受け入れた。彼は目の前に広がるこの美しく(そして時に気まぐれな)海の全てを知っている。その彼の言葉に抗う理由がどこにある?で、一も二もなく即漕ぎ出した。とは言うもののさほどの沖遠くでもなく、だが。ほんの1時間かそこら港周辺でロフォーテンの先端が見えるあたりを目指して。

その数日後には「沿岸急行」と呼ばれるクルーズ船のひとつに乗っていた。トロルフィヨルドの壮大な景色と、その最奥にまで船を操って航行する船長の技術の素晴らしさについては聞いていた(それは以前のFacebookの投稿記事でも書いた)。しかし、この船旅は、たとえ一週間に渡るクルーズ全行程のほんの一部にすぎなくても、自分の旅のスタンダードからして贅沢すぎるのだった。それでもこの船を選んだことを決して後悔したりしなかった。

もうオスロで3夜目になる。あまりに物価が高いので、もともとは1日かそこらのつもりだった。なのに、ロフォーテンでもそうだったけど、滞在をのばしてしまった。なぜなら、ここの美術館、博物館で本当に観たいものを訪ねるには最低でも2日はかかると判ったから。極地探検船フラム号、筏のコンチキ号、ヴァイキングの船、それにムンク美術館と国立美術館のムンク、、、

ムンク以外では、特に船に興味があった。ロフォーテン諸島ではたくさんの地元の船を見たが、ボート、ヨット、大小新旧の船、ほとんどどれもが伝統的な、むしろクラシカルなと言ってもいい工法やデザインで造られていた。それらはノルウェーが持つ海運国としての伝統の「匂い」を醸し出していた。オスロでもまたそれ以上に多くの「同種」の船を見ることになった。ああ、どれも素敵だ。

残りの旅の日は数えるほど。これからハンブルクに向かい、友人に会う。その後、10月5日にストックホルムからロンドン、香港経由で大阪へ。大洋を二つ越えて船で帰れたらなあ、、、

ムンクについてはまた別の機会に。


それぞれの旅

ここ数年、夏が終わりに近づくと旅に出ていた。今年は早々とまだ寒いうちから四国八十八ヶ所の霊場を歩き遍路で回りたいという願望に取り憑かれていた。しかし思わぬ定期の仕事が入ったために、当面は延期ということにしておいた。1年や2年延ばしたとしてもまだまだ体力は残っているだろうし、望外の収入を旅の路銀に貯めておけばいいやね、と。

しかし、また日が少しずつ短くなるのを感じる季節になり、どっかと地に据えていたはずのお尻がムズムズし始める。週にたった一度の仕事なんぞ打っちゃって、御免っ!と一言いって人でなしをやればいいんだよ、という甘い誘いが聞こえて来る。寒くなる前に出かけないと、、、と季節に駆られるように旅の妄想が始まる。

妄想だけではない。ふと気づくとスマホやパソコンで具体的な旅の算段をやっている。しかもそれは何故か四国遍路ではなく、去年行った北欧のトレッキングトレイルKungsledenへの回帰。あの旅で中学生の時に夢見た憧れのトレイルとの邂逅を果たしただけでなく、旅の動機となった映画『太陽のかけら(原題:Kungsleden)』に散りばめられた謎が、半世紀を経て旅路を辿る中で次々に解けたのだから、かの地への想いは十分に燃え尽きていたはず、なのに。2016-09-03-14-06-08

結局は今日まで人でなしの一言は切り出せず、スマホのアプリで見つけた関空⇔ストックホルム往復7万円という格安航空券も予約しないまま、9月下旬には全ての山小屋が閉鎖されるので丸ひと月かかるKungsledenの旅は幻夢に終わろうとしている。(まだ「今すぐ」なら間に合うぞ、という声も耳をよぎるのだが、、、)

そんな時、昨年来堺町画廊で行われてきた「民映研の映画上映会」で知り合った正木隆之さんの本『ちゃりんこ日本縦断』(副題:アクティブシニアの小さな冒険)が届いた。正木さんは長年の勤めを退職して、新たに起業する前の「垢落とし」として日本縦断自転車旅を敢行した人で、執筆から編集、装丁まで1人でこなされたとのこと。パソコンよる組版もそのためにIndesingを勉強して仕上げられたという。人当たりの良いやさしいオジサンの正木さんだが、見かけによらぬ(すんません、、、)情熱の持ち主なんだろうな。

まだ読み始めたばかりだが本の出来もすばらしい。「日本縦断」、「自転車」、「本の自力編集」、「自費出版」という頑張りの原動力はその情熱なのだろうけど、本の中身は好奇心に溢れた人らしいたくさんの写真とともに、自分自身をよく知る還暦過ぎた人ならではの適度に脱力した旅の体験談が淡々と描かれている。読み始めたばかりだが、ページをめくる度になんとも旅心をくすぐられる。

正木さんの本を注文してから届くまでの間に、東京の友人Tさんから彼のチベットでのフィールドワークとその後の研究の集大成の論文を読んで欲しいと連絡があり、ほどなくPDFファイルがメールで送られてきた。迂闊にも正木さんの本が間もなく届くことを失念していて、すぐダウンロードして読むよと気軽に返事してしまった。

しかし、Tさんの論文は本文だけでも5万文字と10ページ及ぶ注釈、さらに地図などの図表と現地の写真多数。ここに詳しくは書かないが、彼が長年断続的に行ってきた広範囲にわたる彼のチベット単独踏査行は標高4〜5000メートルの無人の荒野を補給なしに歩くなどサバイバルの極限と言っても過言ではない凄まじさだし、日本での文献調査も地理学書や地図は言うに及ばず仏典を含む専門書などを多岐にわたり、それらを深く読み込み考察してまとめた論文はフォールドワークに裏打ちされた圧巻の内容である。しかもTさんはその研究内容を弛まず吟味し続けているのだ。論文はこの数年の間に何度も改稿され、僕も節目には読ませてもらってきた。そして今回もまた感想や意見を求められたというわけだ。

だから、先にTさんの濃厚かつ膨大な論文を読んだらその後に正木さんの旅行記を読むエネルギーは残らない恐れがある。申し訳ないけどTさんには、後回しにするからと詫びを入れておいた。とまれ、期せずして全く性質も分量も異なる2つの「旅行記」を読むことになったが、読み耽って僕の旅行熱を冷ますにはちょうどいい時に来てくれたものだ。(逆効果の恐れも大なのだけど、、、)


追記:正木さんにTさんの論文のことを書いて知らせたら、ご自分の著書と比較して「満漢全席とお茶漬け」と表現された。「軽さだけがとりえ」、「ミントの効いたシャーベットくらい爽やかだったらよかったのだけど」とも。猫舌の僕には冷ご飯に鮭や海苔や霰やワサビを載せて冷茶をぶっかけた茶漬けが軽く爽やかで何よりも美味しい。正木さんの文章はまさにそんな細やかな具が散りばめられた茶漬けのように軽く、ミントシャーベットのように爽やかだ。

でも、その絶妙な喩えから窺えるように文章の具としての個々の表現は吟味されエスプリに満ちているし、紙面の半分以上を占める豊富な写真もなかなか味わい深いので、ついつい読みながら妄想の世界を漂ってしまう。お茶漬けのようにサラサラっと掻き込んではその美味しさを牛のように反芻していると思ったほど早くは読み進まない。これは望外に楽しい手強さだ。はたしてTさんの大論文に行く着のはいつになるやら。


追記の追記:Tさんとのやり取りで、正木さんの『ちゃりんこ日本縦断』の写真目次ページに使われた見開きの写真(海沿いの原野の中を走る一本の道路)を見て、これはサロベツ原野だろうか、猿払原野だろうか、という話になった。これが北海道のどこかであろうということだけを言い当てるのは、さほど難しい話ではないのだが、、、

本を手にしていないTさんは、僕が送った写真(上)から目次の端にかすかに写っている九州、中国、四国 近畿、北海道、東北、北陸、京都へ、と並んだ地方名から走行ルートやフェリーの航路を想定し、写真に写った道路の規格と彼の記憶と比較した考察をメールで送ってくれた。多分、かなりの時間を割いて彼の頭の中で旅をしたことだろう(いや、地理の専門家で博識、日本中を歩き回った彼にしたら一瞬のことかもしれないな)。読んでいるこちらも思わず彼の「その旅」に引き込まれる。普通の人には「何も写っていない」写真1枚(正確にはその写真が載った本の目次の写真)でこんなに楽しめて、また楽しませてくれる友人がいてくれて嬉しい。僕にも何かしら似たところがあるので、正木さんの本にも「手こずる」ことになるのは見え見えだ。

ちなみに、Tさんと正木さんには日本縦断という共通点がある。ただしTさんは歩いて。


冬のリヴィエラ

友人の嵯峨治彦さんが出した新CD『Nomadic V・A・C・A・T・I・O・N』が届いた。

やりかけの仕事をうっちゃって地下室に籠もり、気合を入れて聴いた。駆り立てるようなリズムの『さらばシベリア鉄道』に昨年秋のKungsleden行きで乗ったシベリア鉄道の列車旅を思い出して心が飛んだ状態になった。あの旅で、大滝詠一に対して掛かっていた僕の心のロックのような複雑な感情が外れたのを感じたんだった。今はなんと心地よく聴けることか。そして次の4曲目『探偵物語』の途中で、重厚にアレンジされた音の波に揺られているうちに不覚にも寝てしまった。。。

目が醒めたら次の『冬のリヴィエラ』の途中だった。CD聴き終わって、また最後の2曲を聴きなおした。そのあとインストゥルメンタルだった『冬の〜』の歌詞が気になって調べてみたら、、、読むうちに気が重くなった。

何十年か前、この曲が森進一に歌われて世に出た時、僕は特段気にも留めてなくて、松本隆による歌詞の内容も今日初めて知るようなものだった。そこに書かれていたのは、僕がexを残し家を出てアメリカへ行くことになるのを予言していたような身勝手な男のフレーズだった。そして彼女は歌のとおり僕には過ぎた人だった。

マズいことに、大滝詠一のファンだった彼女もきっと喜んでくれるだろうと、盛岡にいる彼女のところにもCDを送るように嵯峨さんに頼んでしまっていた。もう今頃は着いているにちがいない。嵯峨さんのカバーはインストゥルメンタルだけど、僕の100倍音楽を聴く彼女はおそらく『冬のリヴィエラ』の歌詞を知らないわけがない。だから身勝手で脳天気な僕からの贈り物に怒ってるだろうな。ただ呆れているのならいいんだけど。思い出さなくてもよいことを呼び覚まさせて傷つけてしまったかも。

「もう、まったくぅ、何を言い出すか、やりだすか判んない人だから面白いわ」と笑って僕の自由にさせてくれたあの頃のように今度も許して、、、とはいかないだろうしなぁ。

あぁあ、何にも手につかなくなっちゃった。。。