友人に勧められて『草原の河』を観てきた。遊牧民の小さな女の子の目から見た、アムド(青海高原)に暮らすチベット人家族の日常を淡々と、でも微妙に深く描いた映画だった。
教えてくれた友人、竹内淳子さんはチベットを題材にした絵を描く画家だけど、主人公の女の子はその竹内さんの絵に出てきそうな「まさにチベットの子ども」という風貌。彼女の天才的にナチュラルな演技にどんどん引き込まれて、ヘタな記録映画より臨場感があった。
この映画に出てくる人たちは誰もが「頭のてっぺんからつま先まで」すべからく善人でもないし悪人でもない。皆わがままで、小心な普通の人間がつい自分可愛さに口にしてしまう嘘や苛立ちの悪態にまみれていてる。日々の生活に疲れた少女の両親は罵り合う(それでも次の赤ん坊を授かるのだが、、、)し、「立派な修行者さま」である祖父も「我を通し」て仏道を優先し連れ合いの死を見届けなかったし、無垢な可愛さに満ち溢れている女の子も動機はどうあれ「嘘」をつく。
逆に、ささやかな優しさも描かれていたりもする。憎たらしい悪ガキたちが全編でいじめているように見えるが、少女から取り上げた縫いぐるみを、村を出て行く別れ際に何気にポンっと投げ返してくれたりする。
そういや、ガキンチョたちが少女に対して彼女の父親を悪し様に言う心無い罵り言葉は、実は一面「真実」だったりするし、少女もそれを本当のことだと知っていたり、父親のトラブルの元々の原因が彼女自身であったり、、、と、複雑に入り組んだ描写になっている。
僕たち普通の人間は毎日小さな善悪を積み重ねて生きているのだ、ということをこの平坦で結末のない映画は言いたいのだろう。それはチベットの社会に限ったことではない普遍性を持っているが、その一方で、多くは描かれないが仏教への帰依の深さが垣間見られるし、日々の不徳を償うような後悔の行動でささやかなソナム(功徳)を対比させるのはいかにもチベット仏教徒的だとも言える。
映画は現代のチベットを扱っていることから、穿って見れば、、、半農半牧民である女の子の両親が新しい村に住み、バイクやオート三輪、トラクターを持っているとか、若い頃に坊さんだった女の子のお祖父さんが文革で還俗させられ、今また僧衣をまとい修行者となって山に籠もっているという設定に、チベット人の「定住化政策による経済的繁栄」や「信教の自由は保証されている」という中国政府のプロパガンダが見え隠れしないでもないが、、、。ただ、それもまた「一部」ではあるがチベットの現状を伝えているとも言える。(地域差や民族間、さらには少数民族内部での富の偏在と、当局による宗教への締め付けとあざとい懐柔政策が頭に在ることが前提として)
それより、一家が放牧をするチベットの高原(28年前に僕が行ったのはチベット自治区だが、青海省もチベットだ)と黒いヤク毛のテントの何と懐かしいことよ!ああ、またいつか、あの目の粗い蚊帳のようなテントの屋根の隙間から星を眺める夜は来るんだろうか、、、