『苺の季節』

以前、英語で投稿した記事『The Strawberry Season』を訳してみた。

The Strawberry Season
苺の季節

A long-forgotten short story was brought to my mind by the news that told of Harper Lee’s newly published novel “Go Set a Watchman”, the sequel to “To Kill a Mockingbird”.

『アラバマ物語』の続編で、新たに出版されたハーパー・リーの小説『さあ、見張りを立てよ』について書かれた記事を読んだら、長く忘れていた短編小説が思い浮かんできた。

The story I recalled is Erskine Caldwell’s “The Strawberry Season”. I read it when I was a junior high student, about the same time I saw the movie version of “To Kill a Mockingbird”.

その短編はアースキン・コールドウェルの『苺の季節』だ。読んだのはまだ僕が中学生のときで、同時期に映画化された『アラバマ物語』を観たころだ。

While “– Mockingbird” opened my eye to the social absurdity, “The Strawberry –“ awakened  my pubertal sense.

『アラバマ物語』に社会的な不条理への目を開かされ、『苺の季節』には思春期の感情を呼び覚まされたのだった。

I read “The Strawberry –“ only once or twice, though I liked it very much. I hadn’t returned to the story ever since, because … I somehow imagined then the green relation between the protagonists, a young boy and a girl, wouldn’t last as the strawberry picking season was to end soon– too sour-sweet a situation for me to bear. I was simply too young, then.

僕は『苺の季節』がとても気に入っていた、とは言うもののほんの一、二度しか読んでいないのだけど。以来ずっとこの小説を読み返していない。というのは、、、なんか、こう、主人公の少年と若い女性の青っぽい関係は苺摘みの季節と共に終わってしまったんだろうな ― という想像をすると、そんな甘酸っぱい状況を受け止めるには切な過ぎた。当時、自分はまだまだ若すぎたんだろう。

Coincidentally, these stories’ background setting was the Deep South, but I do not know if it had something to do with my early interest in American literature.

偶然だけど、この二つの物語の背景はアメリカの深南部(ディープサウス)。ただ、そこに若かった僕のアメリカ文学への興味と何か関係があるるのか、は判らない。

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I just now read the“The Strawberry Season” this time in original English. After all these fifty years, the story is again sour-sweet as before;  I am simply too old, today, though.

今しがた『苺の季節』“The Strawberry Season”を、今度はオリジナルの英語で読んだ。何だかんだ言ったところで、50年経ってもこの物語は以前と変わらず甘酸っぱい。自分はもう歳を取りすぎてはいるものの、、、


追記:最初の英語投稿からもう丸6年。あれから僕は『苺の季節』も『アラバマ物語』も、その続編の『さあ、見張りを立てよ』も読んでいない。だいたい、大人になってフィクション、つまり小説というものは(アメリカでの英語授業で読まされたものを除き)数えるほどしか読んだことがないのだ。

『苺の季節』の前後にはオー・ヘンリーの短編を読むくらいだった。高校に入ると中の良かった同級生たちがやたら文学の話をするので、北杜夫の『白きたおやかな峰』を読んだが、小説と呼べるものはそれくらいだった。長じても『スミスのかもしか』や『2001:A Space Odyssey』くらいしか思い出せない。紀行文やエッセイ、技術書は山ほど読んだけど、、、

関係ないけど、今「大人になって」と書いたが、もう大人になってから50年以上経った。この投稿の本文中にある「50年経っても」というのは中学生の頃から数えての話だ。あの頃の5、6年の隔たりの大きさを考えたら、この6年は何の進歩もないまま、あっと言う間に過ぎ去った。いまだに「もう歳を取りすぎている」を更新中。


毎月、一日はお弁当の日

以前、出町うさぎを夫婦でやっていたゆきちゃんがお弁当を再開して数ヶ月。月一だから老人配食サービスぢゃないけど(笑)、たまには「ちゃんとしたもの」を食べないとねえ。(最近、頓に自堕落で手抜きの食生活を送っているから尚更だ)

で、前日お願いしておいたお弁当を一日に受け取りに行った。前日には新型コロナワクチンの1回目の接種を受けたばかりだったけど、丸1日経っても何の副反応もないとか、接種のWEB予約システムがクソだとか、接種会場で大勢働いている人たちはそれなりに親切丁寧だけど、なんかどっかちょっと、、、と、グダグダ愚痴をこぼして、気がついたら30分くらい立ち話をしてしまっていた。弁当の受け渡しだけなのに、、、(笑)。

受け取ったとき、弁当箱を通してご飯の温かみが手のひらに伝わって来たのが、いつの間にか(てか30分も駄弁ったら!)冷めてしまっていた。帰り道、また高野川か鴨川の河原でお弁当広げようか、と思ったけど、梅雨の晴れ間、いや曇り間は長続きしなさそげで、ジトジトと蒸し暑いし、そそくさと家に帰った。

玉手箱を開けたら、いつものように質実剛健、ベジタリアン。味と栄養に重きを置いたボリューム満点のおかずとご飯。ああ、また鴨たちと戯れながら外で食べたいな。

ふと過去投稿を見たら、先月もほぼ同じ題名を使って記事をかいていた。。。
毎月1日はお弁当の日

出町うさぎの思い出

それよりずっと前のはこちら↓あのころはインスタから流れてきてたんだな、、、
出町うさぎのお弁当、写真では写りきらないものが溢れてる。(from Instagram)