引き手の取れたジッパー修理

ズボンのジッパーを引っ張り上げるツマミみたいな引手が無くなっていた。これが無いと上げ下げに困るだけでなく、スライダーがロックできず、すぐにずり落ちて、とても恥ずかしい思いをすることになる。

無くなった引き手の代わりに紐を付けてみたが、ロックがかからない。仕方ないので紐のループを前ボタンに引っ変えて、ずり下がりを防いでいたが、まっこと不便じゃき、重い腰を上げたぜよ(いや、立ってないけどね’、、、)。

そこで、ボロボロに擦り切れて、もう穿かない古いズボンの引き手を移植しようと思ったら、ムシ(あるいはエレメント)と呼ばれる噛み合わさる歯のサイズやピッチは同じなんだけど、それぞれの引き手の取り付け基部の形が少し違う。

この基部がキモで、引き手を摘まんでここを引っ張ればスライダーのロックは解除され上下に動かせる。手を放して引手を離して折りたたんでおけばスライダーはロックされて、重力やジッパーを左右両側へ引っ張ろうとする力(太ってる場合ね)が働いても動くことはない。(理論的には先の紐でもそうなるはずなんだけど、、、)

基部の形が違えば、引き手の無くなったスライダーに、別のジッパーから取ってきた形の違う引き手を移植するだけではロック機構が上手く働いてくれない可能性があり、少々手間がかかるがスライダー本体ごと取っ替えたほうが無難だ。

スライダーの移植方法はいくつか考えられる。

  1. スライダーの両サイドをこじ開けて外す方法
  2. 左右のムシの歯を一つずつ取り外して開いたところからスライダーを外す方法
  3. 上止めを外してスライダーを上に引き抜く方法
  4. 下止めを外してスライダーを下に引き抜く方法

1はスライダーを壊す恐れがあり、壊れるまでではなくても、移植後にカシメた後もムシの噛み合わせが悪くなってジッパーが途中から開いたり、ロックが上手くかからなくなるかもしれない。それじゃ恥ずかしい状態を晒すことの解消にはならな。

2、3、4はスライダーを壊す恐れがないが、2のムシを外す場合は復旧が困難だったり、やはりその場所からムシの噛み合わせがハズレてジッパーが弾ける恐れがある。てことは1とあまり変わらない。

なので、3か4の選択となる。上止めは両側に二つあるが、小さいものなのでこじ開けてまた元に戻すと不具合がでそう。こじ開け具合が悪かったら壊れるかもしれない。スライダーを一番上まで引き上げた時にグイッとその力を受け止める場所でもあるので後々の耐久性も心配。

最後に残った5も、同じように止め金具を壊してしまう恐れはある。ただ、ズボンの場合、ジッパーの一番下は、前の合わせ目(フライ)の下端よりまだ下に隠れていて、スライダーを引き下げる時に上止めのような力を受け止めることはない。

大抵の場合、スライダーを下止めまで下げることはなく、ズボンを脱ぐにしても「別の理由」にしてもある程度下げれば用を足せる。だから交換のプロセスで心ならずも下止め金具が壊れても、その部分を糸と針でぐるぐる巻くように縫ってしまえば代用できるし、スライダーはめったにここまで下がって来ないのだから、耐久性も案ずるほど悪くないはず。だいたい、ズボンの作りにも依るが、下止めまで下げてしまうとスライダーが合わせ目の下端に潜り込んでしまい、前を閉めるのに往生する。

ともかく、5の下止めを外してスライダーを外すのが一番無難そうだ。

で、やったこと。

  • 下止めは断面が「工」の形でその両サイドがジッパーの左右のテープに噛み込んで繋ぎ止めている。この隙間にペンチの刃を食い込ませて、折れない程度に且つテープが外れるくらいまで押し開く。
  • 下止めを引き抜く。
  • スライダーを引き抜く。(以上をドナーとレシピエントの両方で行う)
  • 全うなスライダーの両サイドにレシピエントのムシを差し込む。(ムシの位置がズレた場合、スライダーを外れるギリギリまで下げ、左右のテープの片方を引っ張り上げて調整する)
  • スライダーを引き上げた状態で、下止めを元の位置に戻し、ペンチで左右の噛み込みをカシメる。

以上。

 


『苺の季節』

以前、英語で投稿した記事『The Strawberry Season』を訳してみた。

The Strawberry Season
苺の季節

A long-forgotten short story was brought to my mind by the news that told of Harper Lee’s newly published novel “Go Set a Watchman”, the sequel to “To Kill a Mockingbird”.

『アラバマ物語』の続編で、新たに出版されたハーパー・リーの小説『さあ、見張りを立てよ』について書かれた記事を読んだら、長く忘れていた短編小説が思い浮かんできた。

The story I recalled is Erskine Caldwell’s “The Strawberry Season”. I read it when I was a junior high student, about the same time I saw the movie version of “To Kill a Mockingbird”.

その短編はアースキン・コールドウェルの『苺の季節』だ。読んだのはまだ僕が中学生のときで、同時期に映画化された『アラバマ物語』を観たころだ。

While “– Mockingbird” opened my eye to the social absurdity, “The Strawberry –“ awakened  my pubertal sense.

『アラバマ物語』に社会的な不条理への目を開かされ、『苺の季節』には思春期の感情を呼び覚まされたのだった。

I read “The Strawberry –“ only once or twice, though I liked it very much. I hadn’t returned to the story ever since, because … I somehow imagined then the green relation between the protagonists, a young boy and a girl, wouldn’t last as the strawberry picking season was to end soon– too sour-sweet a situation for me to bear. I was simply too young, then.

僕は『苺の季節』がとても気に入っていた、とは言うもののほんの一、二度しか読んでいないのだけど。以来ずっとこの小説を読み返していない。というのは、、、なんか、こう、主人公の少年と若い女性の青っぽい関係は苺摘みの季節と共に終わってしまったんだろうな ― という想像をすると、そんな甘酸っぱい状況を受け止めるには切な過ぎた。当時、自分はまだまだ若すぎたんだろう。

Coincidentally, these stories’ background setting was the Deep South, but I do not know if it had something to do with my early interest in American literature.

偶然だけど、この二つの物語の背景はアメリカの深南部(ディープサウス)。ただ、そこに若かった僕のアメリカ文学への興味と何か関係があるるのか、は判らない。

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I just now read the“The Strawberry Season” this time in original English. After all these fifty years, the story is again sour-sweet as before;  I am simply too old, today, though.

今しがた『苺の季節』“The Strawberry Season”を、今度はオリジナルの英語で読んだ。何だかんだ言ったところで、50年経ってもこの物語は以前と変わらず甘酸っぱい。自分はもう歳を取りすぎてはいるものの、、、


追記:最初の英語投稿からもう丸6年。あれから僕は『苺の季節』も『アラバマ物語』も、その続編の『さあ、見張りを立てよ』も読んでいない。だいたい、大人になってフィクション、つまり小説というものは(アメリカでの英語授業で読まされたものを除き)数えるほどしか読んだことがないのだ。

『苺の季節』の前後にはオー・ヘンリーの短編を読むくらいだった。高校に入ると中の良かった同級生たちがやたら文学の話をするので、北杜夫の『白きたおやかな峰』を読んだが、小説と呼べるものはそれくらいだった。長じても『スミスのかもしか』や『2001:A Space Odyssey』くらいしか思い出せない。紀行文やエッセイ、技術書は山ほど読んだけど、、、

関係ないけど、今「大人になって」と書いたが、もう大人になってから50年以上経った。この投稿の本文中にある「50年経っても」というのは中学生の頃から数えての話だ。あの頃の5、6年の隔たりの大きさを考えたら、この6年は何の進歩もないまま、あっと言う間に過ぎ去った。いまだに「もう歳を取りすぎている」を更新中。


毎月、一日はお弁当の日

以前、出町うさぎを夫婦でやっていたゆきちゃんがお弁当を再開して数ヶ月。月一だから老人配食サービスぢゃないけど(笑)、たまには「ちゃんとしたもの」を食べないとねえ。(最近、頓に自堕落で手抜きの食生活を送っているから尚更だ)

で、前日お願いしておいたお弁当を一日に受け取りに行った。前日には新型コロナワクチンの1回目の接種を受けたばかりだったけど、丸1日経っても何の副反応もないとか、接種のWEB予約システムがクソだとか、接種会場で大勢働いている人たちはそれなりに親切丁寧だけど、なんかどっかちょっと、、、と、グダグダ愚痴をこぼして、気がついたら30分くらい立ち話をしてしまっていた。弁当の受け渡しだけなのに、、、(笑)。

受け取ったとき、弁当箱を通してご飯の温かみが手のひらに伝わって来たのが、いつの間にか(てか30分も駄弁ったら!)冷めてしまっていた。帰り道、また高野川か鴨川の河原でお弁当広げようか、と思ったけど、梅雨の晴れ間、いや曇り間は長続きしなさそげで、ジトジトと蒸し暑いし、そそくさと家に帰った。

玉手箱を開けたら、いつものように質実剛健、ベジタリアン。味と栄養に重きを置いたボリューム満点のおかずとご飯。ああ、また鴨たちと戯れながら外で食べたいな。

ふと過去投稿を見たら、先月もほぼ同じ題名を使って記事をかいていた。。。
毎月1日はお弁当の日

出町うさぎの思い出

それよりずっと前のはこちら↓あのころはインスタから流れてきてたんだな、、、
出町うさぎのお弁当、写真では写りきらないものが溢れてる。(from Instagram)