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ポリカーボネートを曲げる

熱に強いポリカーボネートを使って染物の蒸し器の内箱を作ろうとしている。(外箱は檜)

家庭用簡易染物蒸し器

本当はステンレスの板金でやろうか、と思ったんだけど、型に合わせて切り抜くのが面倒だし、シャープで手を切りそうな切り口の処理も必要。かといって外注するととんでもなく高くなりそう。

そこで、130℃くらいまで耐熱性があるポリカを選んだと。蒸し器内部は水蒸気で満たされるため100℃止まりだから、30℃のマージンで十分だろうと。ところがその耐熱性が仇となって、アクリルや塩ビのようにニクロム熱線での曲げが難しい(できないことはないけど結構高熱にするためタイミングが微妙)らしい。じゃあ、ポリカがアクリルより強靭であることを逆手に取って、板金のベンダーのようなもので曲げればいい。実際、ヘルメットのシールドや帽体などに使われる丈夫な素材なので、曲げRがきつくても割れたりしないし、折れ曲がり降伏後の極端な強度低下がない。ただ、強靭なだけにモノサシや机の角でひょいと曲げたりはできないので、ベンダーがどうしても必要になる。

株式会社アマダ Websiteより

上の機械は数千万円だとか。もうちっと小型のヤツもアマゾンとかで数千円で売ってるけどね。

Amazon websiteより

しかし、うちにそんなベンダーなんぞ都合よく有るわけもない。。。今後、使う予定のないものに数千円ですらもったいない。が、無ければ作るだけのこと。

いつもお世話になる昆布金物店で鉄アングルをわけてもらい、あり物の2X4材にネジ留めして、長ネジとバネ、ワッシャーとナット、自動車のジャッキを大釜に放り込んで半日グツグツと煮込んだら、あ~ら不思議!ベンダーが出来上がったじゃあーりませんか!(嘘)

手製ベンダー

ありものの2X4材は長さ61cmしかなく、50数センチのポリカを曲げるために長ネジの孔を外へ追いやらねばならなかった。強度計算したわけじゃないけど、曲げたいポリカは1mm厚だからなんとかなるんじゃね?曲げのRができるだけ小さくするために、1本のアングルの辺がエッジ状に尖るようディスクサンダーとヤスリで研いだ。受けになる方のアングルの辺は丸みを帯びたまま。

長ネジも長さ30cm足らずしかなく、図面なしで場当たり的に作ったのでジャッキを噛ませたらカツカツだった。押しバネ圧縮最短の長さが長すぎてエッジが下がらないので、バネを逃がすためにアングルの両端をディスクサンダーで削り下げた。

0.5mm厚のアルミ板で試運転。楽々曲がって、曲げRも申し分ない。だが、裏側のアングルに触れたところが若干傷になった。そこで、ポリカではタイヤチューブを切って下に敷くことにした。

次は本番と同じ厚み1mmのポリカ板を直角に曲げてみた。幅も本番で曲げる最大に近い45cm。かなり抵抗があり、ジャッキのハンドルを回すのに力が要る。(もっとも、長ネジの長さ足らずのために上下スペースが窮屈でパンタグラフ・ジャッキがペチャンコ状態でしか使えず、あまり力が発揮できないんだけど、、、)。

1mm厚ポリカーボネートを曲げる

上部アングルの形状から90°より急な鋭角にはできないことになってる。でも、そこはポリカの柔軟性で、スプリングバックを考慮して鋭角まで無理に押し込んでみた。結果は、スプリングバックのせいで鈍角の120°ほどで落ち着いた。実際の蒸し器の部品としては直角に曲げることが無いので、これで十分である。(アングルに施した「エッジ」自体が90°ほどなので、無理やり押し込んでもアングルの厚みによって折れ曲がりのシャープさが失われる恐れがある)

曲げの内側は直角にならず、鈍角までスプリングバックした。

大成功である。が、蒸し器の製作以後はポリカも板金も曲げる予定がないので、なんとも無駄な特殊工具として作業場に転がることになる運命だ。


以下、製作過程おさらい

 

 


出町うさぎの思い出

以前、叡電出町柳駅の東にあった出町うさぎのゆきちゃんが、久しぶりにお弁当を作って配達に行くので一つわけていただいた。

出町うさぎが閉店したのは新型コロナの前だった。事情は知らない。けど、その冬にパンデミックが始まってもう一年以上になる。続けていたら大変だったろうなあ。ただ、たまーにしか食べに行かない客だったけど、コロナの前にやめて良かったとは言えない。コロナ禍さえなかったとしたら、お店を続けていてくれていてたらなあ、、、と言っただろうな。

これ書きながらちょっと懐かしく思い出して、過去の投稿を読んでみた。

↓昼の部
https://okamoo.com/blog/2015/03/24/demachi-usagi%e3%80%80%e5%87%ba%e7%94%ba%e3%81%86%e3%81%95%e3%81%8e/

↓夜の部
https://okamoo.com/blog/2015/04/17/%e5%87%ba%e7%94%ba%e3%81%86%e3%81%95%e3%81%8e%e3%80%80%ef%bc%92%e5%ba%a6%e3%82%81/

https://okamoo.com/blog/2016/07/03/focalpoint%E2%87%92le-petit-mec%E2%87%92%E5%87%BA%E7%94%BA%E3%81%86%E3%81%95%E3%81%8E

まあ、絵空のパイを欲しがっても仕方ない。だんなのドイツ料理は「いつか」の楽しみにしておいて、今は、たまにだけど、ゆきちゃん担当だった昼のベジランチのお弁当バージョンを堪能できることに感謝。

しかも、毎月一日に配達があることになったとのこと。ってことは少なくとも月に一度はお弁当にありつけるわけだ。

件のお弁当は、鴨川の河原でいただいた。お弁当を受け取ってから原付きCiaoで走り回ったので、箱も中身も揺さぶられまくり。味はいつものように美味しい!どれも美味しいけど、中でもごま豆腐は秀逸だった。ごっちゃん!

追記:鴨川だけにマガモがおこぼれを狙って現れた。と思ったら、スズメとハトとカラスまで。(関係ないけど、マガモのオスは他のオスを威嚇して排除するけど、なぜかスズメやハトには構わない。ましてカラスには目も合わせない。いや、目線は知らんけど少なくとも近寄りもしない)


Radio Flyer と 戸車カート

アメリカで学部生時代に僕の指導教授だったLyle Laske(今は友達だから敬称なしの呼び捨て、、、てへっ)が、かの地では知らぬものがいないほどの、もう「文化の一部」と言ってもよい玩具をモチーフにした楽しい動画を知らせてくれた。

かつて多くのアメリカ人の子どもたちが遊んだ、いや、今も遊んでいるミニチュア荷車のような赤い手曳きの「Radio Flyer」というワゴン/カートがあるんだけど、Antonio Pasinという若いイタリア移民の家具職人がシカゴで木製のワゴンを作り始めたのがその始まりだったそうな。第一次世界大戦前夜の1913年に16才でアメリカに来たPasinが作る、本物の荷馬車を模したワゴンにも希望と気合が入っていたことだろう。船旅時代にアメリカにたどり着いた多くのヨーロッパ移民と同じように、彼がまず最初に目にしたものは自由の女神像(Statue of Liberty)だったにちがいない。Pasinは彼の最初のワゴンを「Liberty Coaster」と銘打ったことからもその気概がうかがい知れる。

さて、Pasinが木製ワゴンを作っていたころ、世界で最初の流れ作業ラインでT型フォードが大量生産されていて、その板金パーツ製作には金型プレスが使われていた。それまで自動車は当時のハイテク技術の塊で、先端技術者や熟練職工が技術・労働集約的に製造していたので、めっぽう高価で一部の大金持ちのものでしかなかった。しかしHenry Fordは自動車をライン量産により効率化とコストダウンをすることで(相当に大変な出費だけどね)一般の労働者でも買えるようにして、一躍時代の寵児なった。フォードの成功にヒントを得たPasinも金型プレスで打ち抜き整形すれば、手間のかかる木製より製造コストがさげられ、誰でも子供たちに買い与えられる安価なワゴンが作れる、と板金ボディーのワゴンを作り始めたという。そして、今度はラジオ(Guglielmo Marconi)と飛行機(Wright brothers)という当時最先端の技術からそのワゴンを「Radio Flyer」と命名した。(この辺りはWikipediaなどから掻い摘んで書いている)

生まれついての家具職人であったPasinがその木工技術に固執することなく、いかにもアメリカ的な大量生産方式へサクッと転換できたのは彼がまだ若かったからだと思う。アメリカという国もまだ若く、その成長に乗っかって成功した若者の一人だったPasinはちっさい4輪を作っていたので「リトル フォード」と呼ばれたらしい。もちろん彼の成功は若さや時流に乗っただけでなく、その目先の利く決断力や行動力があってのことだけど。

それにしても「Radio Flyer」という安直で意味のわからん名前を考えついたのはラテン系という彼のおおらかな素質のお陰か、それともまだ英語が上手く使えなかったためのか、、、(「不思議な英語の商品名」と言えばSonyの有名な音楽プレイヤーで、英語的には不自然な響きの「Walkman」を思い起こすけど、あれとて初めアメリカではもう少し英語らしい表現の「Walkabout」と称されていた。何かの拍子に日本での商品名の「ウォークマン」があちらでも使われるようになり、いつの間にかそれが受け入れられてしまったとのこと)。何にせよ、今ではアメリカ社会で「Radio Flyer」もこの手のワゴン/カートの代名詞となっている。そしてそれとともに育ったアメリカ人たちは、人種・貧富を問わず老いも若きも、それぞれに自分だけの夢や思い出を「Radio Flyer」に乗っけているのだ。
Radio flyer wagon 1950's and young girl

ちなみに、下の動画に登場する男の子の名前はAntonioで、それは当然Antonio Pasinへのオマージュであり、また、彼のグランパがびっくりしたときに発する「Santa Maria!」も彼らがイタリア系であることを示唆している。シンプルな3Dアニメだから英語が解らなくてもこの動画は観れば話の筋は判るけど、このあたりはやはり聞き取れないと、判らないだろう、、。

振り返って、僕が子供の頃つまり60年以上も前の話だけど、残念ながら日本では誰も「Radio Flyer」なんぞ見たことも聞いたこともなかった。ただ、子供のニーズは世界共通で、今のようにネットがなくても、自然発生的に似たような玩具が存在していた。ていうか、当時の(日本を含め、アメリカのように裕福じゃなかった国の)子供は欲しいものは自分で作るか、年長者に作ってもらっていた。だからRadio Flyerそのものじゃなくても4輪のワゴン/カートだって有ったのだ。ただし木製。木の切れっ端を幾つかつなぎ合わせた板に釘で戸車を4つ打ち付けて縄を付けただけの、いわば台車のような代物だけど、機能的にはアメリカのカウンターパートに引けを取らない。気の利いたバージョンは飛行機のラダーを動かすフットバーのように足で操縦するステアリング機構さえ奢られていたのだった。

この戸車カートについてLyleに説明しようとPhotoshopで写真をコラージュしてでっち上げた。なかなか上手くできたのでここに上げておく。ああ、僕の木製「Radio Flyer」が懐かしい。

My version of Radio Flyer cart

4輪のワゴン/カートではないけど、アフリカには「チクドゥ chukudu/tsikudu」という、木でできたキックスクーターのような2輪の乗り物がある。これは、子供の玩具としてだけでなく、大人が荷物の運搬に実用しているらしい。発祥の地、コンゴ民主共和国に繋がりの深い友人によるとあちらではもっぱら大人用、でもタンザニアじゃ子供の玩具とか。そういえばアメリカでも大人が「Radio Flyer」で花の植木鉢やガラクタなどちょっとした荷物を運んでいるのを何度か見たことがある。今、大人の僕は玩具としての「chukudu/tsikudu」が欲しくてたまらない。作りたいな。

chukudu/tsikudu
Chukudu/tsikudu: アフリカで利用されている木製二輪車。地域によって大人が荷物運搬に実用していたり、子供の遊び用乗り物であったりするそうだ。(POPOFカレンダーより)
タンザニアの木製二輪。コンゴとちがい、子供の玩具として使われることもあるようだ。写真のものはルカニ村の子供の手作りだとか photo: Nojiko Fushihara

大人が使うということで思い出した。子供の頃に乗っていたあの木製「Radio Flyer」の自作バージョン(上の写真)とよく似たものがうちのガレージに転がっている。うちの古いFiat 500(Cinquecento:これも玩具っちゃあ玩具なんだけど、、、W)がしばしば故障するので、修理のためにその下へ滑り込めるように、合板の切れっ端にキャスターを付けたクリーパー(寝板)をでっち上げたのだった。もしも僕の木製「Radio Flyer」が今もあったら、それを使っていただろうな。

自動車修理用にでっち上げたクリーパー
自動車修理用にでっち上げたクリーパー

なんか、Lyleの知らせてくれたYoutube 動画から、あちこち妄想が走り回ってとりとめがないというか、収拾がつかなくなっちゃった。長くなったのでこれでおしまい。


顔認証対応?マスクの製作

仮面劇じゃなくても、マスクを被ったら自分以外の誰にでもなれるような気がする。そんかし、自分じゃなくなっちゃうんね。。。

マスクを付けていながら自分という人間を全面に押し出したい、自意識過剰、というか自己顕示欲過大な人間にとって、自分を失わずにCOVID-19の世を生き抜く小道具を作ってみた。つまり、マスクの下に隠れている顔の部分(鼻と口)を紙に印刷してマスクの上に貼り付けてやろう、という魂胆。

スマホの自撮りカメラで正面画像を1枚撮るだけでもいいのだけれど、ちょっとだけ手間をかけてやった。いかに平面的な顔立ちの東アジア人とはいえ、それなりに顔面は湾曲している(だから大抵の気の利いたマスクにはタックが取ってあるし、安物のアベノマスクでも耳掛けゴムのところで自然にギャザーが寄るようになっている)。そんで、正面の画像に加えて、左右の斜め前からも撮影した画像を合成したと。

若干大きすぎたきらいがないでもないが、、、僕の顔に見えなくもない、くらいには仕上がっている。(はたして、しかしこれを装着して街を歩く勇気がでるかどうか、、、)

追記:

郵便受けの中から取り出しもせず打っ遣ってあったアベノマスクがあることを思い出した。次回投稿。(動画あり)


モンブランの万年筆 Montblanc Meisterstueck No. 146

20代の前半に初めて海外に出た。行ったのは米国カリフォルニア。たかがアメリカ、されど外国旅行未経験者にとってはそれがどの国であっても何もかもが珍しい。

旅の内容はまた別の機会に書くとして、帰路に立ち寄ったホノルルで空港の免税店なるものにこのとき初めて入った。’70年代当時、既に1ドル360円の固定レート時代は終わって輸入品の値段は下がり始めていたが、それでもショーケースに陳列された免税品は日本国内の「舶来」の高級品と同じものなのに随分と安くなっているように思えた。悲しいかな旅行経験どころか人生経験も浅かった僕は「ここで買わないと、次またいつこんなチャンスが訪れるか判らない」と衝動買いに走ろうとしかけた。

しかし、旅の終わりで懐も寂しくなっていたので、結局買ったのはモンブランの万年筆を1本だけだった(と言っても、とても高価だが、、、)。しかも、既に万年筆の時代は終わりかけていたし、だいたい僕自身が普段から文字なんぞこれっぽっちも書かない人間だったからその時は完全にトチ狂っていたとしか言いようがない。はたしてその万年筆「モンブラン・マイスターシュテュック 146」は机の引き出しの肥やしとなったのだった。

それから10年近く後、アメリカに留学することになり、どういうわけかそのモンブランを持っていった。が、普段の授業のノートやテストには鉛筆を使ったからあちらでも当然のこと出番はなかった。一度だけ、記憶が確かなら、美術史のテストで散々な点数を取ったために教授からテスト範囲をカバーするペーパー(レポート)を書いて出せと言われたときに、気合を入れて清書するのに万年筆を使った。

アメリカ人学生の多くは字が極端に下手で汚く、まともに読めないので教員は手書きペーパーの受け取りを拒否することが多い。しかし留学1年めの僕はタイプを打つことがろくにできなかったため、丁寧に書くからと教授に泣きついて認めてもらった、、、とかなんとか、そういうふうな事情だったと思う。

けれど、いつの間にかタイピングもできるようになり、また万年筆の出番はなくなってしまった。以来ずぅぅぅぅーっと。机の引き出しに眠っていた。

さっきYoutubeで手作り万年筆の職人さんの仕事を撮した動画を見て、久しぶりに自分のモンブランを取り出してみたら、無性にこれで文字を書きたくなった。インク壜も後生大事に持っているので、恐る恐る万年筆に充填し、自分の名前を書いた。なんか、とっても心地よい!