Day 11 text / 0830

真夜中にフィンランド国境に至る。まずロシアの制服にタモージのバッジ付けた若い兄ちゃんが来る。ロシアのビザは山ほど訪問予定地が書いてあって有効期間も9月20日くらいまである。ウラジオストクでどこにも泊まらずシベリア鉄道に直行だったので、バウチャーの行程の初めの宿でやってもらうべき登録ができていない。いろいろグレーなビザなので、若干緊張。しかし、何もなくスタンプを押してくれる。ほ。。。フィンランドの入管はにこやかだけど、あれこれ訊かれる。ラップランドでトレッキングというと、気をつけて、と言われおしまい。

同室にはヨルマさんの上にもう1人ロシア人の若者がいたが乗り込んですぐ寝てしまい、ここで降りるので話すことはなかったが、ダ・スビダーニャの挨拶だけは言う。

そのままヨルマさんは寝ないようなので、僕も付き合って話をする。若い頃はアイスホッケーやボクシング、射撃などのスポーツをやっていたそう。スキーはやらなかったの、と訊いたら。競技じゃないけど子供の時はフツーに履いて滑ったり歩いたりしていたとか。あたりまだな、ニュージーランドやオーストラリアの人にラグビーやったことあるか訊いたらようなものだ。。。ジャンプの葛西はフィンランドは誰でもしっってるって。

ヘルシンキで降りて、真子さんともお別れ。困ったことがあったら連絡をと言ってもらう。いつか京都でお貸しした本を返していただける日が来ることを、と言ってさよなら。

スーパーのお菓子売り場で「世界一マズイ」と日本人だけが思っているサロニアッキを買い、郵便局に行ってお土産の切手や不要になったものなどと一緒に日本へ送り返す。以前にもお願いしたことがある町内の人に預かってもらうため、電話した。僕のはIP電話なので国際番号なしでいつも通りかかる。若干のタイムラグが気になるが、、、ちゃんと通じてOKをもらう。

1人になって、もうこれ以降は街の中でも自然の中でも今までのような人との関わりや会話はなくなるだろう。人の大勢いるヘルシンキもストックホルムも通過するだけだし、スウェーデン北部のヘマヴァンから始まるKunglsleden南部はオフシーズンの今頃は1日歩いても人に出会わないこともあるというし、、、今これを書いているヴァイキング・ラインの大きな船でも個室だし。

そうそう、船に乗るとき、最後っ屁みたいな出会いがあった。iPad miniで日本語のサイト見ながら調べ物して歩いていたら、乗船口の手前で僕の腕が横の人にぶつかった。脳が日本語モードだったせいか、とっさに「あ、ごめんなさい!」と日本語で言ってしまう。相手の女性が「いえ、こちらこそ、、、え?日本人?」と。お互いビックリ。名古屋から来た日本人の方で、22日に日本を出て、まだまだこれからヨーロッパ各地を回るのだとか。日本語がぺらぺらの外国人女性と二人旅。

このフェリーは、というかヘルシンキ発の船はどれも大きく、
客室が何百もあり、デッキが何層にも分かれていて、巨大なビルかちょっとした町くらいあるので、もう会わないかもしれない。可能性があるとすれば食事だけど、レストラン、ビュフェ、バーなどが複数あって、しかも何れも僕の財布のレンジではない。前もって時間を合わせなきゃ下船のときにも再会は難しい。肘触れ合うも他生の縁かもしれないが、乗り込んですぐ「じゃあ、またどこかで」と別れた。(ふつううは乗り物から降りるときに言うことばだけどね。笑)

電話もネットも通じない、人に出会うのも稀なところへ行くのに選んだ手段が一つの車輌に5〜60人も詰め込まれ、しかも次々に入れ替わるという、えらく濃厚なシベリア鉄道3等のだった。僕は旅をする度にいつも良い出会いに恵まれてきた。何処かへ行って何かを見たというだけでは得られない喜びを感じる。ありがたく幸せなことだと思う。

しかし、もうそれも「懐かしい」過去になり、月が変わる頃には一人旅が始まる。僕は昔から山歩きは単独行が好きだった。映画「太陽のかけら(原題:Kungsleden)」の主人公が10年前の自分と恋人の幻影を追いながらKungsledenの道を独り歩く姿を自分に重ねてきたのかもしれない。山歩きを始めて間もない頃から憧れの地であるKunglsledenへ近づくにしたがって、周りの環境が変わり人間関係が希薄になってくる。(といっても、ヘルシンキは日本にいるのと変わらない便利さで、人も親切だし英語もよく通じる居易いところだんだけど、、、)。こちらからも周りへ働き掛けることが少なくなり、自分の心も一人旅への準備を始めていることがわかる。

ウラジオストクで買ったカップマッシュポテトの最後の一個を食べた。手足の指の爪を切り髭を剃り、洗濯をして寝る。


Day 10 photo / 0829

エフソンさん

ボルガ川

バト・エルデネさん、シュルさん親娘

トローチ。試供品のトローチがもれなく付いてくる。本体は要らなくね?

何料理の店なのかわからないけどサラダとシャシリクを食べたレストラン

同室のヨルマさん。しかし、、、なんじゃ?この列車の綺麗さは。。。

めちゃ綺麗なトイレ、シャワー付き
ペーパーもクリネックス

Day 10 text / 0829

シベリア鉄道最終日。午前中にモスクワに着いちゃうので、朝から車内は荷物の作り直しとかで落ち着きがなくなる、かと思いきや、みんな今まで通りの日常生活を送っている。

明け方、眼が覚めるとコストロマという駅で70分の長時間停車中。モスクワが近づいて、ここで遅れの時間調整をするのだそうだ。太ったエフソンおじさんも外に出ていて、空がきれいだとトルコ語で言っている。その後、かなり走ってみんながそろそろ起きだした頃、エフソンさんに突っつかれる。アゴで窓を指して「ヴォルガ」って。ボルガ・ドン運河とかそういや習ったな。。。この川を越えたらモスクワはもうすぐそこ。昨日、真子(シン子)さんと長話をしてるときに、窓の外にちらっとウラルの分水嶺に置かれた欧亜境界の標識を見た。。。と思う。でも、オベリスクの形してなかった、、、ま、何でもいいけど、もうとっくにシベリアではなくなってる。

あと15分とかになると、さすがにみんながゴソゴソし始める。まる一週間お世話になった099番列車6号車とも間もなくお別れ。バザルバイくんにFB経由でツーショット写真を送る。そういや、iPadはモバイル通信はずーっと3G接続が続いてる。シベリアでは少々村があっても3Gにもならない。LTEはほぼ絶望的。ウラルを越え、ボルガを渡ったら、ますます人口密度が高くなり、それだけモスクワに近づいてると。。。

ほぼ定刻にモスクワ着。ヤロスラフスキー駅は20年ぶり。停止してもまだ座ったままで話をしてる人もいる。その中にはモンゴル人のバト・エルデネさんと娘のシュルさん、英語とロシア語でいろいろ助けてくれたトゥクショーくんたちモンゴル人もいる。僕も荷物が大きいのと袖振りあった色んな人たちに挨拶するので、ゆっくり降りる。物凄い勢いで出口に殺到する中国とは違うなあ。

ホームを出ないうちに真子さん、オクサナさん、ニコくんに追いつく。ニコくんは身体と衣類を洗うため安い宿へ向かう。フィンランド行きの僕と真子さん二人をオクサナさんは隣の出発駅レニングラード駅の入り口まで見送ってくれる。真子さんは僕のより早い列車の切符を買いに、僕は荷物を預けに、ここで解散。シベリア鉄道の最後の仲間ともこれでお別れ。

身軽になって駅前をふらふら。多分アクバルに貰った風邪で喉をやられてるのでトローチ買ったり、友達の娘さんたちに切手のおみやげを頼まれてるので郵便局へ行ったり、、、この辺りには長距離列車の始発終着駅が集まっている。どれも歴史を感じさせる立派な建物だが、周りはすっかり変わってしまってる。たった20年しか経ってないのに。

そうそう、20年前に旅したときは、ロシアをはじめ旧ソ連の国々のアイスクリーム(マロージェナエ)が尋常でない美味さだった。安物のロウ紙に包んだビスケットにサンド・アイス。シベリアの途中の駅で探したがもうなくなってしまったようだ。安くて美味いものが淘汰されるなんて、、、。それでも駅前で売られているアイスの中から今風の包装じゃないむき出しのコーン入りのを買ってみたら、かなり昔を思い出させる味。悪くない。

買うもの買って、銀行でルーブルの高額紙幣をユーロに替えておく。時間つぶしと腹ごしらえに変なポスター(マルクス、エンゲルス、レーニンがコック帽をかぶって並んでる)の貼ってあるレストランでシャシリク(串焼肉)とサラダ(久しぶりの野菜、たっぷり!)を食べる。これにポットのお茶で、1070ルーブル(1600円ほど?)。もう使うことのないポケットの札束を処分できる。と思ったら、ありゃ!足りません。ゲロゲロ。カードかよ、、、札束抱えて出国か、、、

駅のホームで列車の乗車を待っていたら、あれ?真子さんがやって来る。早い列車はめちゃ高い切符しかなく、僕と同じのを選んだとのこと。ひょっとしたらまた、と言いつつ別れたけど期待してなかったので嬉しいな。同じ車両、隣り合わせのコンパートメント。

真子さんに車両にシャワーがついてると教えてもらう。すげぇ。ていうか、乗った途端にこの違いは何っ?!って思う。真っ白いクロスの掛かったテーブルにはブリヌィ(クレープ)の軽食と袋に入ったマフィンやヨーグルトなど朝食セット(乗った列車「レフ・トルストイ号」の名前入り特製チョコも入ってるし)。旅客機のベテランCAみたいな風情の英語を話せる車掌さんがお茶の好みを訊きに来る(099番列車6号車でずっと世話してくれた、立派な体格の女性車掌とちょっと田舎くさい男性車掌のコンビも良かったけどね)。まあ、ヘルシンキ直通は2等以上しかないんだけど、それにしても雑居房のような今朝までのシベリア鉄道3等開放寝台との違い!それでも、あの「濃密な」一週間は色褪せないけどね。

同室にはポッコリお腹のフィンランド人ヨルマさん。ヒゲと長髪がもうちょっと白髪だったらサンタクロースだな。久しぶりにフィンランド訛りの英語をきく。アメリカにいた頃、フィンランド人学生は日本語に似た文法構造を持つ母国語のせいで、英語が他の西・北欧の人たちのようには流暢じゃなかった。その後英語教育に力を入れたのか最近会う人は皆上手になっている。でもヨルマさんの訛りや(僕らと同じように、頭の中で言葉の順序を入れ替えてるのであろう)微妙な「間」がなんとも微笑ましく、好もしい。

スウェーデン北部に行くと言ったら、せっかくなんだからフィンランドのラップランドにも来なさい、と勧められる。そこからサーミの人たちの話からアイヌのことになったかと思うと、強国に挟まれたフィンランドとポーランドの類似性、スウェーデン系フィンランド人のトーベヤンソン、終いにゃマリメッコなどなど、晩くまで話す。

韓国のフェリー以来のシャワーを浴びて寝る。


Day 09 photo / 0828

スウェーデン在住の日本人シン子さんにお貸しした本

切符の確認から床拭き、トイレ掃除まで、車掌さんは重労働。6号車はこの女性と調子の悪いトイレ修理に追われ続けの男性車掌さんで全区間2人体制

キルギス人バザルバイ・カラバフショフくんと

ウズベク人サイーフくん


Day 09 text / 0828

シベリア鉄道を始点から終点まで乗り通すロシア人は少ない。殆どの乗客はそこそこの区間で乗ったり降りたり。足かけ一週間のうちに僕の周りの乗客も殆ど入れ替わった。ここに書かなかったけど、他にも挨拶や言葉を交わした人は大勢いる。ロシア人もいればロシア国籍の他民族や外国人、、、 キルギス、ウズベク、ブリヤート、エヴェンキ、モンゴル、中国、韓国・北朝鮮、イギリス、ドイツ、ポーランド、オーストラリア、、、書き切れないくらいインターナショナル。

日本の旅行社はシベリア鉄道の3等寝台切符を売らない。危険だとか、盗難の恐れだとか、いろいろ理由はあるのだろう。一番最初に出会った日本語を話し、日本に住んでいるロシア人女性からも、3等では気をつけて、とアドバイスされた。じもっちのアクバルくんですら席を離れるとき、充電中の携帯を見ておいて、と頼んできた。でも、それくらいのことは日本でも不特定多数の人が行き来する場所なら常識の範囲内。

外国人旅行者は3等に物好きで乗っている。貧乏でこれしか乗れないわけじゃない。いっぽう、ロシア人や出稼ぎの人たちは経済的に他の選択肢を取りにくいのかもしれないが、みんな普通の、、、というか、普通以上に親切で気さくな、好奇心の強い人たち。プライバシーもへったくれもない、言ってみれば昔の長屋暮らしのようなものだ。

一方、例えれば現代のマンションのように隔離されたコンパートメントの1等や2等に乗って、もしも一人なり三人なりの相方たちとウマが合わなかったら、、、それに、嫌な言い方になるが、手癖の悪い人が同室だったら、、、そんな可能性を考えてしまう僕は性格が悪いのかもしれないけれど、、、いくら3等より安全と言われても一向に居心地が良さそうには思えない。

今までパックパック背負ってよく旅したけど、僕は個室よりドミトリーが好きだ。世界中からいろんな種類の人間が集まってきて、面白い出会いがあり、ファーストハンドの旅の情報を交換できる。

シベリア鉄道の3等開放寝台の旅はそれより更に良い。乗客は様々。旅が目的の観光旅行者もいれは、仕事や勉強という生活の一端として移動のための旅をしているひともいる。旅先のドミトリーで溜まっていても得られない経験ができる、、、つまり、普通の地元の人たちが生活を引きずって、向こうから乗り込んで来てくれるのだから、物見遊山の旅人としてはたまらない。

てなことを書いていると、アジア系の若者に、モンゴル語で話し掛けられる。充電にアダプターを使いたいらしい。電気のお守りはもう引退させてよ。。。きのう、モンゴル人のバトエルデネさんと話して、ちょっとモンゴル語に自信がなくなってきたので、英語は?ってきいたら、普通にできるよと返事が。。。メシ前まで30分をど雑談。トゥプシンシントゥグス(トゥプショー)くんはモスクワの大学に留学中で休み明けに戻るところ。アニメ見て英語をおぼえたって。あと、英語ができないとロールプレイング・ゲームができないとも。彼の場合は英語がだけれど、オクサナさんやニコくんなどもアニメをきっかけに異文化への理解を深めた人たちに出会うと、たかがアニメと言って見下している人間の視野がいかに狭いか、、、と思わずにいられない。

実は列車の長旅に備えて、80年代に一度読んだことのある小林信彦「翻訳」、W.C. Franagan「著」の「ちはやふる奥の細道」を持ってきている。アメリカ人若手俳句研究者という触れ込みの架空の著者が、知ったかぶりの限りを尽くして、芭蕉の生涯を下敷きにして、有る事無い事、荒唐無稽な説を開陳するという本。最も簡単な例として、侘びと寂びが凝縮してワサビとなった、みたいな事や、江戸期日本や芭蕉に関する事柄をアメリカの音楽や映画・テレビなどの芸術芸能を引き合いに出して脱線しまくる、底が浅いにか深いのかわからないトンデモ比較文化研究などなど。しかし、シベリア鉄道3等開放寝台車輌内での生活は、想像をはるかに超えて多忙。 日記を書く時間にも事欠くほどで、今日までの一週間で僅か三分の一しか読めていない。

午後からずっと5号車のシン子さんと話し込む。話は多岐にわたるが、半分以上、僕の旅自慢話になってしまう。これはイケマセン。ただその中で、判ったのは、京都やウィスコンシンなどで彼女の人生の航跡と僕のそれとが何度も交わり、しかもそれらの交点は奇跡のように時期まで一致するということ。この次は、僕より十ほど若いけど、僕よりずっと人生経験の豊富な彼女の話を聞かせてもらいたい。単に、シベリア鉄道に20回以上乗ってるっていうだけで、もう「恐れ入りました!」でしょ?

さて、例の芭蕉本は読了できないので、シン子さんにお貸しする。ニコくんやオクサナさんには荷が重いだろう。それは日本語能力の問題ではない。小林信彦が一行ごとに埋め込んだ仕掛け、行間にまで溢れ出すパロディーのイタズラを咀嚼するには、少なくとも(「古き良き」アメリカの ニオイに満ちていた)80年代までの日本の空気を直に吸っていないと殆ど不可能だ。出版当時、クソ真面目にこの本の架空の著者の理解の浅さを批判した書評があったとか。日本人のプロでさえそんな有様だから、オクサナさんたち外国人 には無理、というのではなく、単にジェネレーションの問題。シン子さんは、ページを繰りながら、あ、これわかる、こっちも知ってる!と喜んでくれる。僕と同じ年頃のお姉さんとシェアして読み、分からない所は訊いてみるそうだ。喜んでもらえて嬉しい。いつか京都に来られる時に返してもらえたら、荷物の重さも送り返す手間も減って僕も嬉しい。

明らかに中央アジア系の若者が、いつの頃か時々僕の前の席が空いてるとやって来て座り、僕の顔やiPadを黙ってガン見する。初めのうちは若干キモい感じがしたが、当てずっぽうに、ウズベク?て聞いたら黙って頷く。モスクワへ?ってロシア語で訊いたら、また黙って頷く。。。あ、そうか、口をきかせる質問すればいいのだった。もう何度も使ったのでソラで言える、お名前は?の砕けたバージョンで訊いてやったらやっとサイーフと喋ってくれて、僕はコウジと返したら、二って笑う。でも何となくさびしい笑い方。僕は人の名前をすぐに忘れるので、メモ帳に書いてと頼むと、ささっと書く。それ以降はサイーフくんと顔を合わすと、お互いニッコリするようになる。

もう一人気になるひとがある。斜め向こうの席にいるスキンヘッドのおっさんくさい若者を見ていると、まるで日本人のように見える。 思い出せないけど、日本のどっかで会ったんじゃないか。。。ガタイはデカイが、目が合うとなんか柔和に微笑み返しててくる。こちらから名前は何?ってロシア語で聞いてみた。バザルバイ・カラバフショフ、キルギス人だって。。。えっ?またキルギス?名前が長いのでニックネームを聞き出すのに30分くらいかかる。僕のつたないロシア語とトルコ語ではラチがあかず、結局モンゴル人のトゥプショーくんに助けを求める。ほぼ絶望的に言葉が通じないのに、アクバルがいなくなって以来、一番仲良くなった人。FB友達リクエストまでのもらっちゃう。もち即ok。
通路向かいのおじさんエフソンさん一家もパンをシェアしてくれたり、しんせつ。彼ともロシア語とトルコ語しか通じない。日本を出る前に、トルコ語ネイティブ話者の友人から、僕のトルコ語はヨーロッパでとても大切な財産になるよ、と言われたけど、彼は買いかぶりすぎ。ああ、もっと勉強しておけばよかった。。。