秋田の友人が関わっていた『のんびり』という雑誌が16号でひとまずの区切りを迎え、3月に最終号が出た。
先月、ちょうど岩手の盛岡から息子の賢治が来ていたので一緒にレティシア書房へ『のんびり』を貰いに行ったら『てくり』という「盛岡のふだんを綴る本」が置いてあった。無料なのに信じられないほど高品質な内容としつらえの『のんびり』とちがって有料で且つ簡易な中とじだけど、記事や写真、紙面づくりは『てくり』も負けていない。『てくり』にも共通の「におい」を感じた。僕は盛岡周辺の山の特集号を買った。賢治はその『てくり』編集者とのつながりがあって書店のオーナー夫妻と4人であれこれ話が弾んだ。
一昨年のオシラサマ馬頭琴の旅で岩手から北海道へ渡り、札幌の友人、嵯峨治彦さんに出来上がった馬頭琴を演奏してもらった折、『のんびり』のバックナンバーを見せてもらい、帰りには是非秋田に寄って会ってほしいと紹介されたのが最初に書いた友人のTamiさんだった。
ここでは書ききれないが秋田ではTamiさんはじめ、初めて出会った新しい友人たちと大盛り上がりとなり、知らなかった不思議なつながり発覚し、さらに昨年、2度めの秋田の旅でもさんざんお世話になった。
『のんびり』は入荷してもすぐになくなるというので、ここ数号はTamiさんに教えてもらったレティシア書房に発行されたら取り置きしてもらうよう頼んでいた。
最後の号を受け取るときに『てくり』を見つけ、そこに盛岡から来た賢治がいたり、レティシア書房には何度も来ているけど初めてお会いしたご主人と話ができたり、、、一昨年来の「人の芋づる」をいまだに手繰っているような気がする。
さて、その芋づるとは少し離れた京都市北部の山間地に花背と広河原という地区がある。ここ半年、修理に明け暮れた僕の三角屋根の家は花背の最南端、別所という集落にある。広河原はその反対、花背よりさらに北にある。その北限の佐々里峠は日本海にそそぐ由良川水系と大阪湾から太平洋へつながる淀川水系の分水嶺になっていて、京都市の最北部にあたる。
僕が米作りのために花背別所へ移り住んだのは40年前。今回、ここで育った賢治に手伝ってもらい、傷んだ家の長い修理の最後の仕上げを終えた。お披露目パーティーに、新たに入居する人を紹介してくれた地元の漆芸作家、川勝五大さん一家が来てくれた。その時はじめて五大さん夫妻が中心になって発行している『OKU京都の暮らし』のことを知った。
『てくり』よりさらに小さい、表紙も入れて全16ページの小冊子だけれど、これまた『のんびり』に通じる「におい」を漂わせている。今年の3月に出た第3号と、バックナンバーの1、2号を五大さんから直接いただいた。
『OKU京都の暮らし』には「〜花背・広河原のいま〜」というサブタイトルが付いている。手にとって開いてみると、蕎麦の栽培、笹や林業の衰退、製材所の廃業、、、、花背を離れて30年の僕が知らない、まさに「いま」の情報が溢れている。
僕のいた頃の花背別所は移住者や子どもが増える傾向にあった。正直言うと、静な山村暮らしを求めて来た僕には今ひとつ嬉しいということもないだったが、それは山間僻地のコミュニティーがまだ健常で、僕をその「お客さん」でいさせるだけのゆとりがあったからだろう。しかし時が経って、やがて子どもたちは街へ出て行き、地元の人も他所からの移住者も高齢化して、この地を、この世を去って、お客さんどころではなくなっている。
それでも、五大さんたちのようなここで生まれ育った人たちが地域をもり立てる試みを続けていることに、いまさらながら頭の下がる思いだ。「お客」としてあぐらをかいて、そのうち出て行ってしまった僕は、この冊子を読みながら顔から火の出る思いをしている。
家を直しながら、息子の賢治と「いいなあ、こんな緑豊かな景色のなかで、こんなきれいな家に住めるなんて、、、」と、他人事のような(いや、貸してしまうのだから、実際に住むのは他人なんだけど)冗談を言い合っていた。以前から賢治は「いつか帰って来たい」と言っていたが、自分で手をかけたらなおのことだろう。しかしインターネットの光回線どころかADSLすらもない環境では彼の現在の仕事はできない。賢治も『OKU京都の暮らし』の既刊3冊を盛岡へ持って帰った。さてそれらは彼の「いまの花背」への思いにどのようなインパクトを与えるのだろうか、、、