セルカ→チェクチャ
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朝、目が覚めてキッチンへ行ったら、ドイツバイエルンから来た親子の二人がすごい勢いでテーブルを拭き、床を掃いている。絵に描いたようなドイツ人の几帳面さ。つられて僕も寝室の床掃除。
メキシコ人のダヴィッドくんたちは早めにケブネカイセへ向かったが、僕とアンドレアスくんはダラダラ駄弁って、気がつくと10時をとっくに回っている。今日も12kmだから、お昼に出ても日暮れまでにはチェクチャの小屋に着ける。
それでも、まあ、途中にきつい登りがあるのでそろそろ、と思って出かけるが、アンドレアスくんはまだ荷造りもしていない。おさきに、、、
10時40分に出て、あっという間にお昼になる。適当なところでへたり込んで昨日かいためたチョコバーとかを食べていたら、アンドレアスくんに追い抜かれてしまう。。。ノンビリ歩くとか言って、けっこう早いじゃん。
今日はやたら大勢のトレッカーに出会う。きっと昨夜は目的地のチェクチャは大混雑だったことだろう。ヘイヘイ!っていうのはスウェーデン式の挨拶。でも今まで会った人の半分くらいはスウェーデン国外から。
昼飯から間もなく、道端に座り込んでおしゃべりしている女性2人組に挨拶したら、英語でご機嫌いかがと声をかけられた。日本から来たと言うと、「コニシワ」って。。。(^_^;)。唯一知っている日本語だそうな。彼女らはアイルラント人で、一人はアイリーンさん。アメリカ時代の留学生アドバイザーがアイルランド系で同名だった。どこかにてるかも。。。もう一人は若い頃のメリル・ストリープ似のベッピンさんでフィオナと言うとそうだ。
フィオナといえば、アイリッシュ的な音楽がたくさん出てくる『フィオナの海』という’映画は僕のお気に入りなんだけど、、、その時は英語の題名を思い出せなくて、アイルランド映画で知ってるもう一つの作品『My left foot』が何故か口から出る。障害がありながら悲惨な苦労の末に左足ひとつで画家として大成した若者の話だけど、あらすじどころか、全編通じてひたすら重苦しい感じだったことしか思い出せないのに、、、。ああ、あれねえ、、、あれを観てアイルランドを見たと思わないでね、と言われる。
僕は本格的なアイリッシュ音楽をよく知らないが、歌手だった元カノのおかげでアイリッシュの曲を何曲か憶えている。一曲はゲーリックで歌えるので恐る恐る披露してみる。お世辞だろうけど褒めてくれる。
彼女らによると、去年だったか今年だったか、アイルランドでアイリッシュの音楽フェスがあり、日本人グループが少し変わった(日本的な?)リズムで演奏して、スタンディングオベーションを受けていたとか、日本の皇后がアイルランドを訪れた時、アイリッシュハープの演奏を披露したのだとか、、、話してくれる。20分は話しこんだかな。。。
以前、手製のティンホイッスルを作ったことがある。今度の旅にも持ってこようかと迷って、結局置いてきた。持って来てたら喜ばれただろうな。一曲もまともに弾けないが、、、。
先を急ぐわけじゃないので、つい長居。さっきまで遠くの方にアンドレアスくんの後ろ姿が点のように見えていたが、ついに見えなくなる。べつに追いつく必要もないので急ぎはしないが、そろそろアイリッシュの女性たちにさよならする。100mほど行って突然、フィオナの海の原題が”The Ledgend of Roan Inish”とかなんとかだと思い出す。取って返して、その話をしようかと思ったが、、、あまり彼女らの時間を潰しても悪いかなと思い、そのまま進む。
ダラダラU字谷の底を歩く。いよいよ元は氷河の源頭だったであろう、ボウルの底みたいな地形に至る。それからすぐ、行程の3分の2あたりで急な登りの峠がある。登りきる前に振り返ると、この数日歩いてきた谷の底に、雨脚を透し今朝まで居たセルカあたりだけ日が照っているのが見える。
上り詰めたところに避難小屋が建っていて、そこに着くと日本人のような顔立ちの若者がタバコを吸いながら休んでいる。向こうから「日本人ですか?」と完璧な日本語で訊かれたので、はぐらかそうとして「かもね」と答えたら通じない。彼は韓国人。僕も怪しい韓国語でお返し。結局、英語で道の状況などの情報を交換して、お互い北と南へ峠を下る。
峠に着く前あたりから雨が降ってくる。峠で話しをしながら雨支度をして、先に進む。雨の中のハイキングはあまり楽しいものではない。面倒がって脚にレインチャップスをつけなかったので、膝から下がびしょ濡れ。余計に楽しくない。自業自得なんだけど、、、
氷河が残したのか、U字国の絶壁から剥がれ落ちてきたのか知らないが、平たくて鋭い角のある砕石の上を北へ向かって谷を下る。石の凸凹が酷い場所は例によって板が敷いてあるが、ここのは特別長い。峠から数キロ、何本かそんな長いボードウォークと石跳びの末、今夜の宿、チェクチャの小屋が見え始める。
小屋のそばには吊り橋があり、映画『太陽のかけら』で見たのとそっくりな情景だけど、小屋の管理人ステファンさんによると、この小屋は比較的新しく、映画の撮られた50年前には存在してなかったとか、、、あ、残念。ついでに映画のことをステファンさんに尋ねるが、やはり知らないとのこと。スウェーデンに来て事あるごとに訊きまくっているが、誰も憶えていない。僕はよほどマイナーな映画を観たんだなあ、、、。
ステファンさんは、今まで出会った小屋の管理人の中で一番若そうに見える。30代くらいかな。非常に知識が豊富で、夕食どきにキッチンへやって来て、スウェーデン北部の地名について教えてくれる。この辺りの山や川、谷などは元々サーミの人たちが自分たちの言葉で名付けている。現在、地図にはスウェーデン語化されたサーミ語名とサーミ式のアルファベットで綴られた地名が併記されている。ステファンさんによると、サーミの命名方は非常に合理的で、地形を表現、説明するのに都合よくできているとか。それを聞いて地名が言葉で出来た地図の役割を果たしているのではないかと思う。北海道のアイヌ語もきっとそれに近いものがあるに違いない。
スウェーデン人の一人が、スウェーデンの公営放送が公開しているテレビドラマや映画のアーカイブがあって、映画”Kungsleden”(『太陽のかけら』)についての情報も得られるかも、と教えてくれる。帰ったら調べてみよう。(でも、英語や日本語の字幕は無いだろうなあ)
寝る前に、ステファンさんがチエックに来たので、昨夜は大勢泊まっただろうと、訊くと20床のベッドしかないのに、28人泊まったのだとか。8人はフロアで寝たんだろうなあ。。。でもテントよりましか。。。
今夜は、今まで小屋やホステル泊まりしたなかでこの旅初めて二段ベッドの上段になる。ずっと上段だったシベリア鉄道の1週間が懐かしく思い出される。皆が寝静まった後にベッドによじ登るとギシギシきしむ。。。ごめんなさい。
スィンギの小屋を出る前に、同室のスウェーデン人やドイツ、オーストリア人の青年たちと話をする。話題が第二次大戦時のスウェーデンとドイツの関係やアメリカと日本のその後の関係になったとき、犬連れのシエルスティンさんが割って入ってきて、アメリカを悪く言う人が多いけど、いざとなったらアメリカに住みたがるって輩がいる。嫌いだと言いながらアメリカで働きたい、留学したい、ってのが大勢いる、って。彼女もシカゴの郊外で2年間仕事していたそうだが、もう2度とあの国には戻らない、とも言う。彼女がアメリカを嫌いなのか好きなのか、、、判らないけど、僕がアメリカに持っている複雑な感情と似たものを持っているのかもしれない。
ケブネカイセ山岳ステーションへ向かう彼女とはここでお別れ。先に発つシェルスティンさんとワンちゃんたちを外まで見送る。写真を撮らせてもらっていたら、他のトレッカーも写真を撮らせてもらいにやってくる。彼女はそれに気軽に応じている。気難しい人嫌いとは違っていた。。。ちなみに、モーターボートの運行に融通を利かせてくれなかったから、その場では料金支払いを拒否したが、ケブネカイセの大きな山岳ステーションに行って、テウサヤウレで十分なサービスを受けられなかったことの顛末事情を話して支払うつもりだとのこと。なかなかうるさ方、というか筋を通す人なんだな。
スィンギを出て、しばらく行くとシェルスティンさんが皆親戚だと言っていたサーミの集落が見える。十軒ほどあるがどの家からも煙が出ていない。この季節は誰も住んでないのかも。トナカイのフェンスも支柱だけ残して、網は巻き取って置いてある。今も、方法は変わっても季節ごとの移動があるのかな。
さらに進むとKungsledenから右にそれる道の先に吊り橋が見える。よく見るとあの年配夫婦が手を振っている。どうやら彼らは別のコースを行くらしい。さよなら。
今日の行程の半分くらいのところに避難小屋がある。僕が向かうセルカから逆に降ってきた人達も数人いて賑やか。小屋の中はゴミが一杯。Kungsledenでこんなのは初めて。外で昼飯にしようと座っていたら、スィンギで同室だったオーストリア青年に追い越された。
もう少し北へ行くと右手の谷の奥にケブネカイセの北峰と南峰が見えるはず。氷河も見たいので、コースを外れて右手の山腹へ登っていくと、先を行くオーストリア人が下の方から笛を吹いて手を振っている。僕が道に迷ったと思って心配してくれているようだ。手を振り返して大丈夫と知らせる。2〜30分登っただろうか、ようやく南北の頂(だと地図からはうかがえるのだが、、、)と大きな氷河が一望できるところまでたどり着く。スウェーデンの最高峰を見たからって、どれほどのこともないのだけれど、、、
セルカの小屋は思いの外賑やかで、設備も整っているようだ。直接ショップのある管理棟に行くと管理人のヤンさんが、もう閉める直前なので、品切れが多いと言う。明日のチェクチャには、またショップが無いので買いだめをするが、晩飯用のインスタントパスタとかが無いので困ったな、と思っていたら、ヤンさんがが、18日に小屋を閉めた後、いつもなら歩いてアビスコへ戻るのだけれど、今年はヘリコプターなので携帯食料が要らなくなったから、自分用のを安くわけてあげる、と言ってくれる。今夜のと明日の分、2食もらってまずは安心。ここにはシンバ(スワヒリ語でライオン)という名の巨大な犬がいる。もうおばあさんなのか、いつも寝転がってる。仔牛くらいある!!!
さて、指定された部屋に行ったら、例のオーストリア人くんが居る。宿泊棟はいくつかあって、数十人は泊まれるのに、またまた偶然。初めて彼の名を訊くと、アンドレアスくんという。一番遅く起き、小屋を出るのも最後、ノンビリと歩く速さも僕と同じぐらい遅く、そして何より帆布のクラシカルなリュックサックが好もしい。今の時代に、僕が高校生の頃に使っていキスリングザックに似て、外に飛び出したポケットの付いたやつ。僕のバブアーの重たい綿布製オイルジャケットへのこだわりに通ずる所があるかもしれない。ただ、ぼくと違っていつも静かで、でも全く話さないわけでもなく、聞けば知りたい十分なことを話してくれる。(ゆったり景色を見ながらゆっくり歩いているから、彼より後ろにいる僕が変な方向へ行ってるのも気づく。いい感じのペースだね)
彼によると、オーストリア、とくにザルツブルクには日本人がいっぱいやてくる。サウンドオブミュージックのツアーとかが目当てだけど、オーストリア人はそんなの誰も知らないと言う。まあ、ベルギーへ行ってフランダースの犬のこと訊いても誰も知らないようなもんだろう。彼からこの先の終点アービスコもオーロラ鑑賞ツアーの日本人で賑わっているとか聞く、、、。知らなかった。アンドレアスくんは皮肉も言う。日本に行った時、アビスコがその特殊な地形で曇りの日が少なく、オーロラ鑑賞に最適の地だという「プロモーション」に出くわしたが、自分の経験ではあそこも結構曇る、って。
そんな話しをしていたら、同じ棟のメキシコの若者がオーロラ見たこと無いと言う。どうも、アンドレアスくんもメキシコ人くんも理系らしく、話が、太陽から来る電離した粒子が地球の磁場に捉えられ、磁力線に沿って南北の極から落ち込む時に大気と衝突して発光するとか、太陽の活動で地磁気が乱れる磁気嵐のような状態が起きると、オーロラもダンスを始めるとか、、、あまり神秘的でない話になる。僕は好きだが、、、
いましたが、寝る前に小便しに外へ出て、用を足しながらふと振り向いたら、、、あらま、オーロラが出てるじゃん!急いで部屋へ走って戻り、メキシコ人くんに、オーロラ見たい?なら、今だよ。と言うと、他の同宿者も一斉に飛び出してくる。僕が見た瞬間は、緑のカーテンの裾がほの赤く染まっていて、誰かが幕引きをしてるかのように左から右へ縦筋の光の帯が揺れながら走っていた。が、皆んなが出てきたときには、薄雲のせいであまりくっきりは見えなくなる。。。。残念。
30分くらい白い息を吐きながら見たが、最後まで雲はどいてくれない。諦めて戻る。夜中12時まえじゃん。明日も12kmと距離は大したことないが、こちらから行くときつい登りがあり、けっこうタフなコースだとか。なので、もう寝なくっちゃ。。。
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途中、歩けないどころか立ってもいられないほどの強風が吹いて、岩陰に避難。。。
テウサヤウレ、カイトゥムヤウレと同宿だった犬連れのおばさんについてはDay 24 Textを。