先月始めに何とか予約を取れた銀閣寺道の「草喰なかひがし」にやっと行くことができた。
店主の中東久雄さん(ひーちゃん)は、若い時分、花脊で一緒に遊んだ頃はあんなにもオヤジギャクを飛ばすことはなかった(お互い若かったもんね)。昔から決して言葉上手という人ではなかったし、むしろ北山の山奥育ちで純朴な青年というのがピッタリだった。今も立板に水の喋りをかましまくるのではない。使い古されたギャグ・駄洒落の類を臆面もなく繰り出してくるようで、でもどこか「遠慮しいしい」が見え隠れする。
店のしつらえ、料理についてはいちいち書くまい、いや僕ごときが四の五の書けるわけがない。ただ、一緒に行った友人Iさんが「空間もお料理も、静かで芯のある感じでした。そして素材がうれしそうでした!」と言うように、店の造りには無駄がなく、あるべきものがあるべき姿であるべき場所に配置されて、どれもが必然の素材でできていると言える。
また、そこで働く主人のひーちゃんをはじめ料理人、女将、お運びさんまで無駄のない動きをしているのが見て取れる。だからカウンターの内側は忙しい。なのに「静かで芯のある」緊張感もみなぎっている。
料理も同じく。しかし、スキがなさすぎて客に緊張を強いることもない。なぜなら、不必要に手を加えたりこれ見よがしではなく、各素材の「こう料理してくれたら」という望みを叶えてやるような仕事がしてあるから、ただただ素直に美味しいと言えるのだ。
ひーちゃんは言う「作物は、調理方法を煩く語ります。『食べられる物は全て食べ尽くせ』と。「美味しい物だけをつまみ喰いするな』と。」と。同行してくれたIさんをして「素材がうれしそうでした!」と言わしめたのはまさに彼がそれを成し得ている証拠だ。
草喰なかひがしの評判については、いまさらここで繰り言するまでもないが、ちょっとググればいくらでも褒める言葉に行き当たる。加えてミシュランの星だの高名な評論家や有名人の評価だのを聞いてしまうと、客の中には何か異次元の高級料理を食べに来たと構える人はいるだろう。事実、入店前のIさんはテンションが上っていた。
そこへひーちゃんのオヤジギャクがなんとも言えない脱力をもたらす。数分ごとに発せられる彼のダッサイ冗談が絶妙の箸休め。ピンピンに尖った高級京料理や高級フレンチではないのだよ、と優しく我に引き戻してくれる。
Plat principalのメザシが出たらコースも大詰めだ。僕は調子に乗ってご飯のおかわりを5杯。一応3膳目にはそっと出したのだが、、、。ふと見たら隣のIさんもおかわりを重ねている。ひーちゃん以外の若い料理人が彼女におかわりを持ってきて、ひーちゃん譲りの駄洒落をかましてる。おおっ!全ての料理を出し終えて彼も緊張が解けたか。カウンターのあっちもこっちもみんな笑顔でごちそうさま。
優に2時間半を超えるお昼ごはんの後。Iさんと中東ひーちゃん
P.S. この頃、時々東京からやってきては粉もんを異常に欲しがる友人Tくんと一緒に食事に出ると、以前は決してやらなかった、むしろ他人がやるのを軽蔑さえしていた、スマホでの「メシ撮り」をするようになった。すると「おかもっさん、変節しましたねえ」と言いやがる。うっさい!変節でも変態でもええわい。美味いもん喰って、その記憶を大勢とシェアするために、周囲に嫌悪感を与えない限りはOKだろが。。。っていうのが自分なりの言い訳なんだけど。
不思議と今日はスマホを取り出さなかった。上記のぐだぐだ書いた文を読んでもらったら解るかもしれないが、なかひがしの料理は写真に写らないファクターがあまりにも大きい。写真を撮れる雰囲気じゃない、とか禁止されたというわけでもなく、実際、撮ってる人もいたし。でも、無粋とか迷惑とか関係なく、そんなことにかまけているより眼も鼻も口も舌も喉も耳も、つまり全身で感じ、味わっておきたい料理を目の前にしたら、写さないことをこれっぽっちも惜しいと思わかなった。