遠野郷八幡宮でのコンサート。
八幡宮さんからフライヤーが送られてきた。
■8/30(日) 18:30〜 入場無料
■出演:
嵯峨治彦さん、Cosmysさんたち、昔話の語り部さん、と僕、岡本康兒
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あ、自分のトークのハンドアウト作るのすっかり忘れてた!プロジェクタがあればいいんだけど、ダメらしいので資料を配布すると、、、。はて何を書こうか、、、 つか、何を話す?
旅先で、のんべんだらりと時を過ごすのに碗子はピッタリだった。
しかし、母の世話などにかまけて最後の旅からもうずいぶん久しくなっていた。ただ、遠出はできないけど時間は湯水のようにあった。で、4、5年前に思いついたのが茶店の開業。旅に出られないのだったら旅先で入り浸った茶店をここにでっち上げ、碗子を出せばばいいのだと。
そして、来た客にダラダラと碗子や旅にまつわるウンチクを垂れる。まあ、楽しむのは僕であり、僕自身の暇つぶしとしてやっているものだから、客は 延々と駄弁りを聞かされ、碗子の具のようにふやけるまで湯を飲まされて、話と茶に辟易して帰る。というわけで、心や安らぐひと時を提供する喫茶店などでは 断じてなかった。
遊びに付き合わされた客はたまったものじゃなかったろう。そういう僕も、最近はさすがに飽きてきていた。旅先の碗子だって永久に居座って飲んでいたわけじゃない。いつかは宿に帰る時が来る。茶店もぼちぼち潮時かと。でも、それだけが閉店の理由ではない。
茶店を開店するにあたって、どうせなら材料や道具、店の設えには凝ってみたかった。そのためには手間を惜しまなかった。
例えば、かつて中国どこへ行ってもイヤというほど置いてあったのに、今ではあまり見かけなくなったという旧式の魔法瓶を上海の人に頼んで持ち帰ってもらい(割れぬように6本を手荷物機内持ち込み!)、それを四半世紀前のチベット・ラサ以来の友人に羽田で受け取り京都まで運んでもらった。そして彼ともう一人のラサ友と3人して神戸の南京町へ仕入れにも行った。清真食堂のあの白い茶器は見つからなかったけど、なんとか安物の蓋碗が手に入った。乾物屋の店中に無造作に置かれた袋詰食品の中から目当ての日なた臭そうなドライフルーツ類も見つけた。
たとえニセモノの茶店であっても、客が碗子のことを何も知らなくても、出すものはあの清真食堂で飲んだあの碗子に出来るだけ近づけなくちゃ、、、というこだわりがあったのだ(実際にはフルーツ類が若干豪華目に奢ってあるが)。
今更だが、、、ドライフルーツが日なた臭いのは大いに結構として、はて、干葡萄や、杏子、無花果などの果実がはたして大丈夫なのか?と、、、。かの国の農産物や食品の安全事情には、報じるメディアの偏向を差し引いても、疑うに足る不安を持っている。僕自身も旅の途中で、エゲツナイ量の農薬をを被った畑とか、人がペッペと痰を吐き散らかし、犬や子どもがウンチをする路上に直に置かれた野菜など、実際に目にしたものだ。
くだらないかもしれないが「本物」にこだわり、凝れば凝るほど、安物で怪しげな中国産のものでないといけない。そして不安を持ちながらそれを使うという矛盾が生じる。
しかし、やっぱりそれはイカンやろうと。そう思うと、もう自分でも碗子を飲む気が無くなってしまった。ましてや客になどすすめられない。(何を今ごろ、って怒られそ。。。m(_ _)m )
高価な、しかし信頼のおける無農薬・有機栽培のドライフルーツや茶葉を使う手もあるが、もうそれは僕の遊びの範疇から外れて真面目な仕事になってしまう。いい加減でインチキな遊びは楽しかったけど、それも程々にしておかないといけないな、と。
でした。ちゃんちゃん。。。
昔、パックパック担いで旅していたとき、いろんな国でお茶をいただくことになった。
今でも思い出すのは、動物の膀胱や生皮に包まれて強烈な臭いを発するバターが入ったチベット茶。焼き締まっていない素焼きカップの土が溶け出していても見分けのつかない色と、スパイスの香りとねっとりした甘さのインドのチャイ。怪しい絨毯屋に引っ張り込まれて毒盛りを疑いつつ儘よと呷ったトルコの甘酸っぱいエルマチャイ。モンゴルの草原で遠くにゲルを見つける度に馬を寄せては厚かましく無心した塩っぱいスーテイツァイ、、、
まだまだ、シベリアの入り口のイルクーツクで飲んだジャム入り茶やら、北パキスタン・フンザのカワチャイ、ヒマラヤの麓・ダージリンの紅茶やら、、、思い返すと、それぞれが一冊の本になりそうな勢いでお茶の味と香りと当時の情景が湧き出てくる。
’90年に初めて行った中国では、新疆のカシュガルやチベットのラサなど、地方の中心都市といえども国際電話をかけるのには下手すると一日掛かり。いや、それどころか一日待たされたあげく「本日は接続出来ませんでした」と追い返されることもフツーにあった。「一日に一つ何かできればヨシ。後はオマケ」というのが僕の旅の鉄則だったから、通話の可否に拘わらず、電話(郵便)局へ行くという「用事」はともかく達成されたことになる。電話に限らず、郵便局や役所の仕事も交通機関も全くあてにならず、一事が万事その調子なので、その後の予定が全てポシャったとしても別に怒るでも悲しむでもなく、同宿の気の合った友人と街へ繰り出して淡々と茶をシバくのであった。
そんな時、重宝したのが回教徒のやっている清真食堂。そこで出されるお茶「碗子」は、茶碗蒸しの陶碗に似た蓋碗に数種類のドライフルーツと氷砂糖、緑茶葉を入れたもの。そこに魔法瓶でお湯を注ぎ、被せたままの蓋で具を濾しながら啜るのだが、乾燥した彼の地ではフルーツの酸味とゴロリと沈んだ氷砂糖の甘味が心地よく、同じく乾いたトルコやイランで飲んだチャイを思い起させる。しかも嬉しい事に、そのお湯が無制限に無料でお替わりできるのだった。
ひと日の「仕事」が成就してもしなくても、友人と今日の成果や明日の目論見を延々語り合いながら午後の時間を湯水のように垂れ流す至福。バックパッカーだった僕にとって、氷砂糖がすっかり溶けきり、痩せて小さかった干し杏子がブヨブヨになって、お茶がまさに湯水そのものになっても、碗子はこの上ない飲み物だった。
この一年、ずっと考えていたんだけど、
茶店を閉める。
開店(試験営業)したのは2011年の1月。その3月に受けた頚椎手術の合併症で右腕麻痺したのが幸いしてリハビリ中はのんびりと店番が出来た。
その頃の古いエントリーをみると、それなりに張り切ってるじゃん。旗まで作っちゃって(笑)。でも、ああ、あれからもう4年も経ったんだ。。。
まあ、始めから経済的に成り立たない「趣味」の商売だったけど、お茶をしにきた客(ていうか友達)と駄弁ってお金までいただけるという楽しい機会と時間がたっぷりあったわけで、それなりにやった甲斐はある。
週末固定営業からオンデマンド開店にして、朝から晩まで来ない客を待ちぼうけという丸坊主の日は無くなったけど、初期のあの待ちぼうけ感がたまらなく懐かしい。なぜか百姓ごっこを始めて独り田んぼで草取りに勤しんで感じた40年前の孤独になぞらえて、そのことを開店初日に書いている。
やっていて楽しい事ばかりなので茶店をやめる理由は無いのだが、提供する材料に責任が持てなくなったら、そりゃもうオシマイでしょ?
そのことについては改めて書くとして、とりあえず今は、本日をもって西陣、横神明町の茶店(「さてん」ぢゃなく「ちゃみせ」って読む・・・今頃なにを言うとんねんw)は閉店となったことを報告。
昨日、琵琶湖沿いの混んだ道路の真ん中で、腹を上に向けて転がっているカメを見た。
なんでクルマを止めて、拾い上げてやらなかったのか、ずっと後悔している。
前も後ろも対向車線も車でいっぱいで停める場所もなかったから。同乗者がいて先を急いでいたから。カメは動くふうもなくもう死んでたかもしれないから。
なんであれ、今頃思い返してあれこれ自分に言い訳するくらいなら、たった30秒を惜しむべきじゃなかった。あれが人であろうと爬虫類であろうと、、、