花脊八桝、一日遅れの松上げ

15日の雨で一日延期された花脊八桝の松上げに行ってきた。松上げの行われる河原の横を明るいうちに通ったら、ほんの数人のカメラマンたちが場所取りをしていただけで、早くから混雑する例年とは様子が違う。それでも高さ20メートルの大松明(灯籠木=トロ木)は既に立てられていて、周囲には1000本あるとも言われるたくさんの小松明(地松)も河原を埋め尽くしていた。

昔、松上げは火伏せ(防火)の愛宕信仰と盆の送り火が結びついたもののようだ。京都北山(市内〜府下)の各地で行われていたらしいが、現在は十数カ所のみという(こちらのブログに記事の末尾に他地区の松上げレポートのリンクがある)。僕は花脊地区に住んでいたので今回の八桝はもちろん、近隣の広河原、その先の中央分水嶺である佐々里峠を越えた由良川水系にある美山鶴ヶ岡の松上げも見たことがあるのだけれど、雲ヶ畑の松上げはまだ知らない。玉入れ競技のような放り上げ松を投げ上げて上空の松明に点火する他地区のとは異なり、雲ヶ畑のそれは広さ8畳もある大松明に年ごとに変わる火文字を燃やすといういもの。こちらもいつか見てみたいな。

さて、日暮れ前に八桝を通り過ぎ、大悲山峰定寺のある寺谷に住む友人ちへ。そこで古くからの知り合い夫婦も合流し5人で午後8時半ごろに八桝へもどった。9時ごろ点火と聞いていたが、夥しい数の地松は既に燃え盛っていた。祭りの初っ端、提灯を先頭に法被姿に草鞋履き、松明を手にした男集の列が川の対岸のお堂から灯籠木の待つ河原へ向かうところは見逃してしまった。

いつもなら川岸は大勢の見物客でごったがえし、場所取りに一苦労なんだけど、今年は松上げ開始時刻になっても閑散としていので好きなところへ行って、好きなだけ見られる。何年か前に一度やはり天気が悪くて空いていたことがあったらしいが、こんなの僕は初めて。日程延期に対処できない団体ツアー客は来ないし、京都の五山送り火と被ってるし、予想(期待!)していたとはいえちょっと拍子抜け。ゆっくり気持ちよく見れた反面、盛り上がりに欠ける、と言ったら勝手すぎるか。でも、松明を投げ上げる人たちも張り合いがないと思ったのか、心なしか勢がなかったように感じた。

それでも、やがて地上20メートルの大松明に投げ上げた火が入り、勢い良く燃えている真っ盛りに灯籠木を倒すクライマックスはいつ見ても迫力がある。ある年、倒れる方向の延長線上で見ていたら川を挟んだ対岸に居たにも関わらず、衝撃波のような熱気を感じたほどだ。いつもより静かだった  今年もその迫力は変わらなかった。

広河原の松上げでは男達数人で竿を抱えて地上に落ちて燃え盛る大松明の中に飛び込んで、炎を掻き上げる「突っ込み」ということをする。あれを見るといつも上海事変で長尺の爆弾を抱えて敵陣に突撃し爆死し英雄に祭り上げられた元祖特攻隊「爆弾(肉弾)三勇士」を思い起こすんだけど、まあそれはどうでもいい。突っ込みは八桝の松上げでも昔はやっていたというが、僕は憶えがない。

松上げに参加した男たちは火の始末を消防団に任せ、提灯を先頭に伊勢音頭を唄いながらお堂に戻り、その中で輪踊りを続ける。僕の隣に座っていた地元のおばさんは行列がずっと向こうの橋を回って僕らの目の前を通り、お堂へ戻るまでの間、ずっと小声で伊勢音頭を口ずさんでいた。

火祭は基本的に男の祭りで女性は参加できない。さらに、その年に不幸のあった家の人はもちろん、家人がお産をしてもその家の男は参加できないという。ちょっと今時あれだな、、、という人も出てきそう。伊勢音頭を口ずさんでいたおばさんは心で参加してたのかな。(下の録音に入ってるはずだけど聞こえないな、、、)

女性といえば、また広河原の話だが、あちらでは松上げの晩に参加できない女達が浴衣に前掛け姿で観音堂に集まり、輪になって、下駄で板張りの床を蹴って拍子をとるヤッサ踊りをする(ヤッサは坊主に恋した村娘の悲恋を伝える踊りだとか、、、)。そこへ松上げを終えた男衆が伊勢音頭を唄いながら戻ってくると、男女が共に踊るヤッサコサイというのに変わる(昔は夜が明けるまで踊ったとか。その勢いでイロイロあったんだろうなw)。友人は男ばっかりだけど妙におとなしい八桝の祭りを広河原より「上品」と表現していたが、、、品とかはどうでもいいけど、荒くれた突っ込みが消えた八桝にもかつてはヤッサやヤッサコサイのような踊りがあっんじゃないか、、、と思う。

下は広河原のヤッサ踊り、ヤッサコサイ踊りの動画↓


小銭入れ

根が貧乏性で、小銭入れごときに金を掛けたくない、、、だから、よけい金が入ってこないのだろう。。。(;´д`)トホホ…

数年使用した古い小銭入れ

母親がサプリなどのパウチを小銭入れにしていたのを思い出して、自分なりに使いやすく改良したものを、ここ数年使っている。袋そのままだと深すぎて、小銭をその都度ぜんぶ手のひらの上に取り出さないといけない。

改良、という程のことでもない、ちょっとした工夫。底を内側に折り返して、上げ底にすると人差し指と親指が届く範囲に硬化がある、という具合。しかも折り返した部分が内部で中仕切りになって、小銭と折りたたんだ紙幣を別けて入れておける。

物が物だけに長持ちしない、、、と思ったが、考えてみたらもう3、4年は使っただろうな。

しかし、なんでこんな変なサプリの袋がうちにあるのか、、、(ヒアルロン酸の空き袋がまだ1枚あるから数年後にもう1度使えるな)


Logicool (Logitech)マウス M500の修理

M500は大きさと重さが適度で、派手派手な機能がなく気に入って2台使っていたが、流石に何年も経つとヤレてきた。

Windows用は少し前から、Mac用も最近になってチャタリング(スイッチの消耗などの不具合でシングルクリックなのにダブルクリックしたようになる)が発生したので、スイッチを交換。

ネット上にはどっさりLogicoolマウスの修理情報が出ている。それもほとんどが左スイッチ。Logicoolのものは高価なのでみんなちまちま直してるのだろうな。マイクロスイッチの型番さえ判れば特に参考にしなきゃならないほど面倒な工程はない。

百何十円そこそこの部品のためにわざわざ街に出て寺町のマルツで買い物。かつて寺町には家電屋ばかりでなく電気、電子部品を扱う店も何軒かあった。ある時期、それがバタバタとなくなり寺町自体が様変わりしてしまった。電子部品は通販でしか買えない時期があったが、いつの頃からかマルツができて、現物見ながら互換品や相当品を探す楽しみが戻ってきた。

今回は品番が判っていたので、店の前に車を停めてダッシュして目当てのスイッチを速攻で購入し、駐禁貼られる前に車に戻った。おお大丈夫だった。安心してポケットからiPhone出し、マルツの看板の写真を撮り、車を走らせて四条通りを西へ、いざ帰還、、、と思ったら、部品が無い!!!

慌てて御幸町通りを左折し、佛光寺通りからまた寺町へ取って返した。マルツの店の前に、人にも車にも踏まれず、スイッチの入ったポリパウチが落ちていた。

さて、分解は、まずマウスの底のソール(滑り)を剥がし、ネジを外す。上カバーを取ると基盤が露出するので、ホイールを固定しているピンを抜き、ホイールユニットを取り外す。基盤を固定しているビスの頭が見えるので、5本外す。このときホイールユニットのサポート部品も一緒に外す。基盤を外す前にホイールユニットの極小スプリング2本をなくさないよう取っておく。基盤をマイナスドライバーなどで前方から少しこじるようにするとパカっと外れる。

スイッチの3本足をハンダ吸着テープを使い基盤から外す。新しいスイッチを差し込んではんだ付け。

あとは復旧するだけ。10分もかからない。

Logicoolのマウスの中に、ホイールを回すと「コリコリ」っと節度のあるモードと「クルクル〜」っと高速回転させるフリーなモードを持つものがある。M500にもそれがあるんだけど、一台のマウスのホイールがバランス悪く、フリーにすると必ずある方向で止まる。無理に違う方向まで回してから指を離すと、クルリと「定位置」へ戻ってしまう。

今回、バラしたついでにホイールバランスを取ってやった。重い側にドリルで穴をあけて軽くしたら、数回の調整でホイールはどの位置でも安定して止まるようになった。

以上、めでたしめでたし、、、

 


チベット萬歳テカルのCDを聞きながらつらつら思ったこと。。。

涼しい地下で午睡を貪っていたら突然インターホンのチャイムで叩き起こされた。

渋々階段を上がってみたら佛大の某O野田教授。(いっつも突然遊びに来るんでびっくりするがな、、、もうっ!)

千北の大学から彼が所長やってる広沢の宗教文化ミュージアムに移動途中に、前日お願いしていたCDを持ってわざわざ立ち寄ってくれたのだった。

チベットに「テカル」という三河萬歳や尾張萬歳によく似た掛け合い話芸があって、O野田さんは先日もテカルについて考察したミュージアムの研究紀要『チベットの萬歳芸テカル』を届けてくれたばかり。その時にテカルの話芸を録音した音源があったら欲しいと頼んでいたんだった。(不義理な僕と違って必ず手土産をもって来てくれる律儀な気遣いの人で、だから出世するのかな、、、W。突然来られても文句は言えぬ)

テカルは芸人コンビがロサル(チベットの太陰暦正月)に門付けして回る芸能で、(日本の伝統的萬歳における)才蔵役が話を振り、それを受けて太夫役がやたらと目出度いことを延々述べて褒め倒すという、縁起ものの話芸なのだとか。小論文にはWilie(チベット語のローマ字表記方式)のテカル文言と対訳が載っているので、意味を知り、文字を音読してそれなりに雰囲気は掴んでいたつもりだけど、CDでテンポ良く歯切れの良い口上を聞くと、未だ見たこともないテカルの様子が頭のなかに浮かぶ。
(”Bras Dkar”で検索したが画像も動画も殆ど無い。かろうじてロシア語のサイトに写真が何枚かあった)

http://savetibet.ru/uploads/posts/2017-02/1487337660_7_5.jpg
テカルの芸人?と思しき男性。 http://savetibet.ru/2017/02/17/print:page,1,tibetan_losar.html より
http://savetibet.ru/uploads/posts/2017-02/1487337675_7_4.jpg
テカルの芸人?二人ともマスクを着けるのか、は判らない。 http://savetibet.ru/2017/02/17/print:page,1,tibetan_losar.html より 「テカルとは別の踊り中心のタシショパの芸人ではないか」by O野田教授

僕が学校へ上がる前の子供だった頃は、京都市のど真ん中のうちにも時折、流しの獅子舞や虚無僧が来たものだ。三河か尾張かは判らないが萬歳も来た。大黒さんのような頭巾を被りモンペみたいな裁付を履いて小鼓を持ったおじさんと相撲の行司みたいな格好のおじさん二人組が、鼓を打ちながら大げさな身振り手振りで何か面白そうなことを言っているらしいのだが、子供には理解できないことを延々とやってくれたのを憶えている。(そして、僕はそれを上り框のうえで面白がって延々と観ていた。彼ら、母がお金を渡すまでやっていたっけ。。。意味の判らないものはすごく長く感じただけで、実際はほんの1、2分だったのかもしれないが、、、)
近代では砂川捨丸・中村春代のコンビが伝統萬歳から引き継いだと思われる小鼓と先の開いた扇子を持って「漫才」を行っていた。面白いのは捨丸が太夫のように主に喋り、春代が才蔵のように合いの手の役なのに持ち物が「萬歳」のそれと入れ替わっていること。捨丸の芸には唄や音曲が入る。尾張萬歳にも鼓だけでなく、三味線や胡弓の演奏を伴う演目もあるらしいから、これも伝統の継承なのだろう。しかし捨丸の後を継ぐものは出ず、現代の漫才には鼓を使う芸人はいない。唄、音曲という点を見れば絶滅危惧種の「〇〇ボーイズ」や「XXショウ」(コント芸のコミックバンドとは違う)が萬歳の末裔なのかもしれないが、すでにテカルとは形態的に大きく異なってしまっている。

ちなみに、紀要の中では唄や音曲について触れられていないが、貰ったCDのテカルにも途中にダムにェンの演奏と唄が入る。O野田さんは学者らしく慎重に、互いに極めて似通ったテカルと萬歳の「関連性について不用意な推測」は避けるとしている。しかし、たとえ全く関連がなくとも、絶滅した爬虫類のイクチオサウルスと異種の哺乳類であるクジラの仲間のイルカが異なる時代に完全に別個に進化した結果、互いに非常によく似た姿になった「生物の収斂進化」と同じく、テカルと萬歳の類似が異文化における芸能の収斂進化と見ればそれはそれで面白いと思うんだが。。。