Fiat 500 トランスミッション・ディファレンシャル ギアオイル交換の準備

どうも、今、Fiat 500 のトランスミッションとディファレンシャルギアのオイルはFiat指定のSAE 90 S EPゃないような気がする。

現在このSAE 90 SEは通販サイトでも品切れ、というか販売終了で、手に入らない。前回の交換時にクルマの整備工場でも入手できず、よく解らないまま「同じ粘度なら何でも良い」と言ってしまったような気がする、、、。自己責任じゃん、、、。

以来、ギアをシフトする時にどうも渋い感じがして、それまでシフトアップでは必要なかったダブルクラッチを踏まないとギア鳴きが起きることも。また、症状はでていないがトランスミッションと同じオイルバスを共用しているディファレンシャル機構もやばいかも。

というのは、このSAE 90 EPの「EP」っていうのが「極圧」(Extreme Pressure)のことで、このタイプのオイルにはリンや硫黄の添加剤が配合されていて、ギアの表面に高圧に耐えて潤滑性能を保つ皮膜を作って摩耗を防ぐのだとか。

しかし、上に書いたようにもう売ってないので、代替品をさがした。どうやら同じような添加剤が入っているギアオイルはGL-4あるいはGL-5というグレードらしい。少々高いが、せいぜい1.1リッターしか必要ないので良しとしよう。(GL-4より5のほうが添加剤の配合が多かったり内容がちがってたりで、潤滑性能は上ということだが、シンクロの真鍮部品を溶かすとか、、、500と同系統のエンジンだけどシンクロの付いた126やそのエンジンのお下がりをいただいた500RにはEPを使わないと聞いたことがある。逆に言うとノンシンクロの並の500なら4でも5でも良いんじゃね?てんで、GL-5にした)

古オイルを抜いたあと、新しいオイルは車体を水平に保ったまま給油しないといけないので、ジャッキアップせずに潜り込むことになるが、これはかなりきつい。SAE 90というオイルは硬い(粘度が高い)ので、漏斗とかじゃなかなか落ちてくれない。そもそも、地面にへばりついて、クルマの下でにっちもさっちもいかない状態で漏斗をどうせえ、というのか、、、。

トランスミッション・ディファレンシャルギアボックスを下から見たところ。右の矢印がドレーンボルト。左のが注油口兼油面レベル確認孔。ここまでオイルを入れて、溢れたらプラグボルトを締める。

そこで、先達の残してくれた情報を当たってみると、数千円もする専用のポンプを使う以外にも、オイルをシャンプーの容器に入れて押し込む、ペットボトルにポンプとホースをつないで空気圧で圧送する、醤油チュルチュル(灯油ポンプ)でも間に合う等々が書かれている。数千円の専用ポンプは論外として、以前、アメリカにいるときにMG Midgetのトランスミッションオイル交換で、手押しポンプを使ったら、めっちゃ硬くて、手が辛かったり、圧力に耐えかねたホースの継ぎ目から漏れたオイルで手が滑り、ますますやりづらかったのを思い出したので、チュルチュルはパス。空気圧で楽する方法を取ることに。

バルブキャップを外し、自転車用の空域レをつないで、いつでも給油準備OK.

ペットボトルでもいいんだけど、うちには1リットルのオイル缶が転がっているので、それにXL250Sのリアショック改造用(蘇生)に買ったけど使わなかったホイール用空気バルブをねじ込んで、こいつにタイヤの空気入れをつなげばOK。缶の蓋にパイプを取り付けて、エポキシパテで固定、気密化して、パイプにホースを挿し込んで取り付けて完成。(ホースは耐油じゃないけど、一回こっきりなんでこれもOK・・・ いや、また使うかな?)

はたして、給油缶の性能やいかに?

次回、オイル交換実施に続く


Appleのこと、ウォズの魔法使いのこと

「修理する権利」(Right to repair)ということに大してAppleは反対らしい。詳しくは判らないが、もともとMacintoshを売り出して以来、また現在の稼ぎ頭のiPhoneに至るまで、Appleはソフト面(OSやその付随機能)もハード面(コンピュータそのもの)も、そしてシステムというその組み合わせまで「囲い込み戦略」を取ってきたのだから、さもありなん、だと思う。

https://jp.techcrunch.com/2021/07/09/apple-co-founder-wozniak-right-to-repair/

一方で、Mac以外の一般的なデスクトップPCはまだPC/AT互換機(DOS/V機)と呼ばれていたころから、サイドパネルを開き、メモリやストーレイジの交換、果てはCPUの載せ替えまで、半分シロートでもマニュアルやネット情報を見ながらできるようになっている。この大雑把な規格に則った機械であればどのメーカーが作ろうが、ユーザーの自作であろうがWindowsやLinuxを走らせることができる。このオープンさ故にWindows 95の発売以降ずっと、販売台数でMacに水を開けてきた。

ただし、ノートPCも同じ規格なのだが、そのコンパクトさが災いしてなかなかシロートには裏蓋を開くことさえままならない。小型軽量を追求した結果、昨今はメモリさえもオンボード(作り付け)で交換、追加はできないし、バッテリーも外せないものが多くなっている。だからMacのノート、Mac bookの各シリーズ(特にMac book Air以降)がその先鞭をつけたとはいえ、あまり文句が言える筋合いではないのだが、、、、

その傾向はより小型化が進んだモバイルデバイスでもっと顕著になる。今のスマホはiPhoneに限らず、バッテリーさえ取り替えられないブラックボックス化しているし、タブレットも然り。つまり、小さくなればなるほどシロートは手を出すな、というスタンスはどのメーカーも変わらないし、世の中のユーザーもそんなもんだと思っているから、大方の人はスマホやタブレットを修理しようとは思わない。それ以前からノートPCだってそうだし、工具なしでパネルが開くデスクトップだってメモリの交換どころか中を覗いたことのある人は少ないだろう。

だから、今更「修理する権利」と言ったって、どうせ一部のマニアックなPCヲタクが騒いでいるだけなんじゃね?というのが、この状況に飼いならされてきた多くの人のリアクションじゃなかな、とも思う。

ま、それは置いといて。「修理する権利」とアップルの態度について面白い記事があった。(というか、その記事を読んだからこれを書いてる)

僕は、Appleの秀でたデザインセンス(ハードもソフトも)をリードしたスティーブ・ジョブズの才能を高く評価する一方で、彼の独占欲の強さが反映されたAppleの経営・マーケティング戦略には酷く嫌悪する。差し引きするとジョブズは嫌いだ(それは僕のAmericaという国や文化への愛憎相半ばという感情と似ている)。ところが、あまり表舞台には出てこないもう一人のスティーブ、つまりもう一人のApple創業者であるスティーブ・ウォズニアックには真逆の感情を持っている。

ウォズは、神経質そうで芸術家肌+商売人的なジョブズと違い、見た目はあまりヲタクっぽくないけど技術者肌の人で、飾らない、いかにも人から好かれそうな容貌だし、実際そのような人だと思う(直接会ったことないから知らんけど)。ジョブズがAppleを追われ、その後、傾いたAppleの屋台骨を立て直して凱旋を果たすという激しい浮き沈みがあったのに対し、ウォズの方は、オズの魔法使いに引っ掛けてウォズの魔法使いと呼ばれるように、その並外れた技術力を買われていたためかAppleとあまり揉めることもなく(現在、退社しているのか現役なのかも判らないような)付かず離れずの関係を保っているらしい。

ただ、デザインや販売戦略でジョブズの息が大きくかかっているMacintoshの登場で、ウォズが生みの親であり黎明期のAppleを支えたApple IIが冷遇され消えていったことに対しては非常に不満で残念であったようだ。そもそもウォズはApple IIの元になったApple Iの原型機の優秀生が周囲から認められた時、その回路図を無料配布しようとしたとのこと(そして当然、ジョブズがそれを止めて、ビジネス化を進めた)。その辺のことが絡んでいるのかどうかは判らないけど、時折、Appleに対して「物申す」ことがあり、今回のこの記事にあるような発言には、誠実な技術者である彼らしさが100%出ていると思う。こういうのを読むと、ますます彼のことが好きになる。(歳も同年代だし、、、)


iPhone 6s Plusのカメラ交換(ドジの連鎖・・・)

光学手ブレ補正の機能が暴走して、激しい目眩のような振動が止まらなくなった。機械的に壊れたのか、制御するソフトの問題なのか、、、。OSをアップデートした直後から発生した症状なので、後者ではなか?(そうあって欲しい)という希望的観測というか、正常性バイアス?みたいな楽観主義が働く。

まずは原因がOSじゃないことを願いつつ、iPhone作り付けの「カメラ」アプリじゃない、数多あるカメラの無料アプリをいくつか入れて試してみた。そしたら、改善、というか震えが止まって写るときもあれば、そうぢゃないことも、、、。震えていてもiPhoneの天地を逆にしてやるとピタリと止まったり、背面を下にして地面に平行に保つとブレが徐々に収束し、ゆっくり起こすと撮影ができたり、、、。でも、何か撮りたいと思ってから、やおらスマホをあっちゃこっちゃ向けている姿は美しくない。(誰がどの顔して言うてんねん!W)

アプリによっては動画の手ブレ補正をOFFにする設定ができるものもある。が、これも動いたり動かなかったり。要は「何だか解らない、、、」だ。一度、iPhoneをリセットしてシステムを上書きするということもやってみたが、やはりダメ。時間の無駄だった。純正カメラアプリはダメだけど、それ以外では「若干」改善するのは、純正がバックカメラの機能をフルに使い切るのに対し、カメラの機能(特に光学手ブレ補正)をあまり使わない(使えない)シンプルな外製アプリを、数撃ちゃ当たる式に入れてみたら、どれか使えるんじゃね?とか、変な方に走り出しかけた。

が、「ええかげん、目を覚ませや!」という天の声が聞こえてきて、ソフト的修復(ていうか無料アプリの爆ポチリ)に見切りをつけた。そうなると、今度は「修理」か「買い替え」という選択が出てくる。

2015年秋の発売以来、6年も経過したiPhone 6s Plusは、それでも先日のiPhone OSの最新バージョン14.6が使える。毎年毎年、高価な新型iPhoneを発表して売りつけようとするけしからんAppleだが、僕の先代のiPhone 5sも(さすがに14とはいかないがiOS12.5.4のアップデートが先月出ているので)いまだにサブ機として現役だし、5sと6s、この二つの機種をサポートしてくれているのだから、中古しか買わない僕が文句言う筋合いはない。

実際、現時点でiPhone 6s Plusに何の文句もない(故障したカメラを除いて)。iPhoneのバックカメラは数千円で手に入るから、修理を自分でやれば買い替えよりはるかに安くつく。(水没修理、バッテリー交換など、何度もやってるし、その時の工具も残ってるし、、、)

ところで極小の5sから特大の6s Plusに替えたとき、大きい画面で見られる上に、カメラの機能がうんと良くなって初めは良かったんだけど、だんだん手に余るようになってきた。体の割に手が小さい僕はよく落とす。壊れないようにとイカツイ保護ケースに入れてるので、さらに輪をかけてデカくなってしまった。たまに5sを手にすると「携帯」電話という言葉の意味が実感できる。

今、出ているiPhone 12 miniは、サイズは5sに毛が生えたほどだが、ベゼルが狭く画面は5sよりはるかに大きい。次、飼うんだったらこれだろな、と思っている。12 mini は不評らしく、秋には13miniが出そうだがそれがiPhone miniのラストになるとかいう噂もある。何にせよ、13がでたら12の中古価格は下落するだろうから、買い換えるにしても秋以降だな、と。

じゃ、当面はカメラなしでiPhone 6sを運用するか、SIMが使えない5sをモバイルルーターで使うか、数千円を張り込んで修理するか、の選択となる。

前二つはいろいろ邪魔くさそうなんで、ここは一つiPhone に最後の奉公をお願いするための投資をしようと決めた。

ネットで漁っていたらバックカメラが数百円で売られているじゃない!送料いれても1000円しない。飛びついてポチリ。翌日到着。早速分解してカメラを取り付けるも、全く反応なし。アプリを開くとカメラが無いみたいなこと言ってくる。ダメじゃん、バッタもんは、、、。「掴まされたか?」と、よく見たら、これは「iPhone 6 Plus」用!!!!「s」がないのを見落としていた。すんません、値段に目がくらんだ僕の責任でした。

同じ店から今度は間違いない、けど値段ば倍する「6s Plus」用を買った。それでも、よく考えたら普通に売ってるのと変わらないか、あるいは安いくらいだ。・・・と自分に言い聞かせる、今日このごろ、、、(笑)

で、また翌日の午前中には届いたので、早速、カメラの交換を行った。(いつものように、こちら⇒「iFixit」を参考にさせてもらう)

今度は、全く問題なし。水没したときにもカメラの保護ガラスは拭かなかったので、今回、丁寧に掃除した。そのせいか、少し暗い色のくもりが無くなった(ように思える)。また、これも気のせいかもしれないが、アクセシビリティの拡大鏡アプリ(ふふふ、老人!)でオートフォーカスが早くなった。色味がどうの、ダイナミックレンジが何の、といううるさいことは言わないので、これでよし。秋には買い換える気が満々なので、数ヶ月もってくれたら良しとしよう。(と言いつつ、とことん使い倒すのだろうなあ、、、。だってiPhone 12 miniって高いんだもん。)


引き手の取れたジッパー修理

ズボンのジッパーを引っ張り上げるツマミみたいな引手が無くなっていた。これが無いと上げ下げに困るだけでなく、スライダーがロックできず、すぐにずり落ちて、とても恥ずかしい思いをすることになる。

無くなった引き手の代わりに紐を付けてみたが、ロックがかからない。仕方ないので紐のループを前ボタンに引っ変えて、ずり下がりを防いでいたが、まっこと不便じゃき、重い腰を上げたぜよ(いや、立ってないけどね’、、、)。

そこで、ボロボロに擦り切れて、もう穿かない古いズボンの引き手を移植しようと思ったら、ムシ(あるいはエレメント)と呼ばれる噛み合わさる歯のサイズやピッチは同じなんだけど、それぞれの引き手の取り付け基部の形が少し違う。

この基部がキモで、引き手を摘まんでここを引っ張ればスライダーのロックは解除され上下に動かせる。手を放して引手を離して折りたたんでおけばスライダーはロックされて、重力やジッパーを左右両側へ引っ張ろうとする力(太ってる場合ね)が働いても動くことはない。(理論的には先の紐でもそうなるはずなんだけど、、、)

基部の形が違えば、引き手の無くなったスライダーに、別のジッパーから取ってきた形の違う引き手を移植するだけではロック機構が上手く働いてくれない可能性があり、少々手間がかかるがスライダー本体ごと取っ替えたほうが無難だ。

スライダーの移植方法はいくつか考えられる。

  1. スライダーの両サイドをこじ開けて外す方法
  2. 左右のムシの歯を一つずつ取り外して開いたところからスライダーを外す方法
  3. 上止めを外してスライダーを上に引き抜く方法
  4. 下止めを外してスライダーを下に引き抜く方法

1はスライダーを壊す恐れがあり、壊れるまでではなくても、移植後にカシメた後もムシの噛み合わせが悪くなってジッパーが途中から開いたり、ロックが上手くかからなくなるかもしれない。それじゃ恥ずかしい状態を晒すことの解消にはならな。

2、3、4はスライダーを壊す恐れがないが、2のムシを外す場合は復旧が困難だったり、やはりその場所からムシの噛み合わせがハズレてジッパーが弾ける恐れがある。てことは1とあまり変わらない。

なので、3か4の選択となる。上止めは両側に二つあるが、小さいものなのでこじ開けてまた元に戻すと不具合がでそう。こじ開け具合が悪かったら壊れるかもしれない。スライダーを一番上まで引き上げた時にグイッとその力を受け止める場所でもあるので後々の耐久性も心配。

最後に残った5も、同じように止め金具を壊してしまう恐れはある。ただ、ズボンの場合、ジッパーの一番下は、前の合わせ目(フライ)の下端よりまだ下に隠れていて、スライダーを引き下げる時に上止めのような力を受け止めることはない。

大抵の場合、スライダーを下止めまで下げることはなく、ズボンを脱ぐにしても「別の理由」にしてもある程度下げれば用を足せる。だから交換のプロセスで心ならずも下止め金具が壊れても、その部分を糸と針でぐるぐる巻くように縫ってしまえば代用できるし、スライダーはめったにここまで下がって来ないのだから、耐久性も案ずるほど悪くないはず。だいたい、ズボンの作りにも依るが、下止めまで下げてしまうとスライダーが合わせ目の下端に潜り込んでしまい、前を閉めるのに往生する。

ともかく、5の下止めを外してスライダーを外すのが一番無難そうだ。

で、やったこと。

  • 下止めは断面が「工」の形でその両サイドがジッパーの左右のテープに噛み込んで繋ぎ止めている。この隙間にペンチの刃を食い込ませて、折れない程度に且つテープが外れるくらいまで押し開く。
  • 下止めを引き抜く。
  • スライダーを引き抜く。(以上をドナーとレシピエントの両方で行う)
  • 全うなスライダーの両サイドにレシピエントのムシを差し込む。(ムシの位置がズレた場合、スライダーを外れるギリギリまで下げ、左右のテープの片方を引っ張り上げて調整する)
  • スライダーを引き上げた状態で、下止めを元の位置に戻し、ペンチで左右の噛み込みをカシメる。

以上。

 


『苺の季節』

以前、英語で投稿した記事『The Strawberry Season』を訳してみた。

The Strawberry Season
苺の季節

A long-forgotten short story was brought to my mind by the news that told of Harper Lee’s newly published novel “Go Set a Watchman”, the sequel to “To Kill a Mockingbird”.

『アラバマ物語』の続編で、新たに出版されたハーパー・リーの小説『さあ、見張りを立てよ』について書かれた記事を読んだら、長く忘れていた短編小説が思い浮かんできた。

The story I recalled is Erskine Caldwell’s “The Strawberry Season”. I read it when I was a junior high student, about the same time I saw the movie version of “To Kill a Mockingbird”.

その短編はアースキン・コールドウェルの『苺の季節』だ。読んだのはまだ僕が中学生のときで、同時期に映画化された『アラバマ物語』を観たころだ。

While “– Mockingbird” opened my eye to the social absurdity, “The Strawberry –“ awakened  my pubertal sense.

『アラバマ物語』に社会的な不条理への目を開かされ、『苺の季節』には思春期の感情を呼び覚まされたのだった。

I read “The Strawberry –“ only once or twice, though I liked it very much. I hadn’t returned to the story ever since, because … I somehow imagined then the green relation between the protagonists, a young boy and a girl, wouldn’t last as the strawberry picking season was to end soon– too sour-sweet a situation for me to bear. I was simply too young, then.

僕は『苺の季節』がとても気に入っていた、とは言うもののほんの一、二度しか読んでいないのだけど。以来ずっとこの小説を読み返していない。というのは、、、なんか、こう、主人公の少年と若い女性の青っぽい関係は苺摘みの季節と共に終わってしまったんだろうな ― という想像をすると、そんな甘酸っぱい状況を受け止めるには切な過ぎた。当時、自分はまだまだ若すぎたんだろう。

Coincidentally, these stories’ background setting was the Deep South, but I do not know if it had something to do with my early interest in American literature.

偶然だけど、この二つの物語の背景はアメリカの深南部(ディープサウス)。ただ、そこに若かった僕のアメリカ文学への興味と何か関係があるるのか、は判らない。

—–

I just now read the“The Strawberry Season” this time in original English. After all these fifty years, the story is again sour-sweet as before;  I am simply too old, today, though.

今しがた『苺の季節』“The Strawberry Season”を、今度はオリジナルの英語で読んだ。何だかんだ言ったところで、50年経ってもこの物語は以前と変わらず甘酸っぱい。自分はもう歳を取りすぎてはいるものの、、、


追記:最初の英語投稿からもう丸6年。あれから僕は『苺の季節』も『アラバマ物語』も、その続編の『さあ、見張りを立てよ』も読んでいない。だいたい、大人になってフィクション、つまり小説というものは(アメリカでの英語授業で読まされたものを除き)数えるほどしか読んだことがないのだ。

『苺の季節』の前後にはオー・ヘンリーの短編を読むくらいだった。高校に入ると中の良かった同級生たちがやたら文学の話をするので、北杜夫の『白きたおやかな峰』を読んだが、小説と呼べるものはそれくらいだった。長じても『スミスのかもしか』や『2001:A Space Odyssey』くらいしか思い出せない。紀行文やエッセイ、技術書は山ほど読んだけど、、、

関係ないけど、今「大人になって」と書いたが、もう大人になってから50年以上経った。この投稿の本文中にある「50年経っても」というのは中学生の頃から数えての話だ。あの頃の5、6年の隔たりの大きさを考えたら、この6年は何の進歩もないまま、あっと言う間に過ぎ去った。いまだに「もう歳を取りすぎている」を更新中。