The Strawberry Season

A long-forgotten short story was brought to my mind by the news that told of Harper Lee’s newly published novel “Go Set a Watchman”, the sequel to “To Kill a Mockingbird”.

The story I recalled is Erskine Caldwell’s “The Strawberry Season”. I read it when I was a junior high student, about the same time I saw the movie version of “To Kill a Mockingbird”.

While “– Mockingbird” opened my eye to the social absurdity, “The Strawberry –“ awakened  my pubertal sense.

I read “The Strawberry –“ only once or twice, though I liked it very much. I hadn’t returned to the story ever since, because … I somehow imagined then the green relation between the protagonists, a young boy and a girl, wouldn’t last as the strawberry picking season was to end soon– too sour-sweet a situation for me to bear. I was simply too young, then.

Coincidentally, these stories’ background setting was the Deep South, but I do not know if it had something to do with my early interest in American literature.

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I just now read the “The Strawberry Season” this time in original English. After all these fifty years, the story is again sour-sweet as before;  I am simply too old, today.


久々の草刈り

空き家になった田舎の家。先日の台風でも倒れていなかった。。。(笑)

鞍馬でお気に入りのまんじゅう屋さんに寄ったら、昨日は花背峠への街道が土砂崩れで通行止めだったとか聞いた、、、

峠を越えて花背別所は台風なんかあったの?みたいなのどかな風景だった。

庭もなにも草ぼうぼうになってるので、隣の藤井さんちの刈り払い機を借りて、何年ぶりかの草刈り作業。

勘が戻らず慣れないので疲れる。。。トラ刈りになる。。。草が絡まる。。。で、時間ばかりかかる。 しかも、昔は居なかったヒルにやられる。爆発的に増えたシカがあちこちにバラ撒くのだとか。仕事を終えて、ゴム長脱いだら、あちゃー、血が、、、 ヒルさん、さぞ満腹になったでしょうね。

機械を返しに行ったら、藤井さんの奥さんがお茶とまんじゅうを下さった。で、僕は機械のお礼に鞍馬で買ったまんじゅうを差し出した。。。 (^^ゞ もらったお菓子とお茶を一旦お地蔵さんに供えて一服し、玄関に腰掛けてお下がりをいただいた。

帰り道、上賀茂神社の御薗橋を渡る頃にはもう陽が落ちていた。この夏、何度草刈りに足を運ばなきゃならないのかなあ。。。 誰か、家を借りてくれないかなあ。。。

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少なくとも僕は、、、

上品にやっている場合じゃない。なりふりかまっていられないし、相手が禁じ手を連発し、まともな試合にならないのだから、ののしるくらいはするよ。僕はね。

人格攻撃がどうの、品性がどうのと、それを批判する人に僕は反論も、逆批判もしない。その人それぞれのやり方だから。

けど、「口汚い」と批判はされたくないね。愚かなソーリ大臣をバカ、危ない法案をクソと言うと、せっかくの反対の機運に水をさし、運動を貶めることになる、とおっしゃりたいのなら、僕を「あなたの仲間」には混ぜないでほしい。

安倍の暴挙、愚挙に対して、発言作法を統一して「一体となって」反対運動をする必要はないと考える。この国の平和や立憲政治の危機を憂うという共通項を持って、それぞれの立場から、それぞれのやり方で「反対を唱える」ことだけに普遍性があると僕は思う。だから多様な考の中から自動的に自発的に出た言葉は、当然様々であっていいし、強さや毒も中にはあるだろう。

政治家に人格攻撃をする人の品性を疑うというのなら、どうぞ僕のことなど振り向かないでください。そんな暇があったら、ご自分の規範でもって批判の矛先を件の政治家に向けてください。僕はあなたのやり方が間違ってるとも、効果がないとも思っていません。立ち位置、表現は違っても、向いている方向は同じだと思うから。けど、僕のような品性卑しい輩とは一線を画すというのなら、どうぞ。

有り体に言えば「放っといてくれ!」だ。

このごろ「戦争や原発に反対しない、デモにも行かない、ただ平和を願うだけでいい」というウサン臭いスピリチュアル系の話が出回っているが、言い換えれば「黙っとけ」ということだろうな。お前こそ黙っとけ、って言いたい。

それとは違うが、アホバカという「口汚い」人格批判に対するたしなめも、過ぎると似たようなことになりかねないじゃね?と僕は心配する。


【民主、くすぶる路線対立 安保法案に批判か対案か】asahi.com

朝日の記事読むまでもなく、民主が小型自民の様相を呈しているのは、元々わかっていること。

寄り合い所帯で、党内の右は自民の右と何ほども変わらないのがゴロゴロいるから、この期に及んで民主としてのスタンスが定まらない。

まあ、安倍が自民の党内リベラルや良識派を押さえ込んだアザトい手口は岡田には無理だろうから、ゴタゴタしているうちに自民の思う壺にはまっちゃう。

今、その議論じゃないだろ。自民がそれなりに時間かけて持ち出してきたあの手この手はどれも憲法違反という「犯罪」なのに、民主が党内議論も進んでいない対案を慌てて出してどうするのよ。

今まさに人の首を絞め、殺そうとしている奴に対して、「やめろ!」という制止じゃなく、「じゃあさ、こうしようよ・・・たとえば、殴るだけにするとか?」なんて呑気な提案している場合か?

いや、民主の場合それ以前の「止めるか、提案するか」の議論をやってる。そんなのは後でやれよ。

(でもまあ、自分たちには止められないと自覚してるんだろうなあ。。。実際、止められないかもしれない。だったら、反対は反対として押し通し、それで通ったとしても、これこれ、こういう手順で法律の施行を阻止するとか廃止に追い込むとか、提示してみろよ。 つか、期待しちゃダメなんだろな。。。)

という民主批判を、この期に及んでやっている俺は?(笑)

いや、まあ、呆れているだけです〜(;´д`)トホホ…


『アラバマ物語』の前に・・・

中学一年だったと思う。学校の映画鑑賞で観た『アラバマ物語』は、その穏やかなモノクローム映像のオープニングとは裏腹に、中学生にもなって未だ単純で世間の狭い子供だった僕には、理解を超えた差別社会の不条理が渦巻いていて観るのがしんどい映画だった。

主人公スカウトの父親アティカスはそんな映画の中で、僕にも解りやすい実直な弁護士として描かれていた。父のいない僕には、黒人青年の冤罪を晴らすために法廷で理路整然と反証をあげる姿が頼もしく、そしてそんな父をもつスカウトが羨ましくもあった。

映画化のあと、暮しの手帖社から小説の和訳版が出ていたけど、映画で植え付けられた「しんどさ」の所為か、ハーパー・リーの原作は読んでいない。そのころ母が購読していた『暮しの手帖』に『アラバマ物語』の広告が出ていて、表紙にはスカウトの写真が使われていた。ストーリーのしんどさとは裏腹に、映画の登場人物は魅力的だったから、その写真を夢中になって鉛筆で模写したのを今もはっきり思い出す。

絵には描かなかったけれど、理不尽な社会に立ち向かうアティカスの姿は僕の理想の大人として心のなかに刻まれることになる。原作を読まずに原作を語る資格は無いが、少なくともあの映画は僕に社会の理不尽さを教えてくれたし、謹厳実直なアティカスの姿はそれに呑み込まれない生き方をしたいと思わせてくれた、と言える。

今日、ニュースでハーパー・リーによる続編の小説が出たことを知った。『アラバマ物語』の20年後、そこに描かれたあの正義の弁護士は年老いて、こともあろうに白人至上主義結社KKKに傾倒しているという。アメリカの「良心」(そんなものが実際に存在するかどうかは別にして)を象徴してきた、あのアティカスが。。。と、失望の声が上がっているという。

人が不変たり得ないのは百も承知。誰しも歳とともに頑迷になったり、ときには信条や人格まで変わってしまうこともあるのも分っている。だから、僕にはアティカスの変節自体に戸惑いはない。ただ、心の中では不変だと思っていた大切な礎石をひとつ失くしたような淋しさを覚える。

『アラバマ物語』も未読の僕が、今すぐ続編『Go Set a Watchman』を読まないだろうが、もしも読んだら、50年前の映画に感じたのと同じ「しんどさ」を背負い込むことになるだろう。なにしろ続編の内容を伝えるニュースだけですらこんなことを書かせるほどなのだから、、、

『Go Set a Watchman』は『アラバマ物語』(原題:”To Kill a Mockingbird”)より前に書かれていたという。アティカスの変節を逆順で描いたハーパー・リーはきっと非凡な作家なのだろうなと思う。


追記(2023,11,17):ハーパー・リーが「アティカスの変節を逆順で描いた」のは、先に書かれた、つまりリーの初作(というかドラフト)である『Go Set a Watchman』が未成熟だと判断した編集者のテイ・ホホフが、スカウトの少女時代を物語にするよう提案したからだ、と当時のNewsweekの記事に出ていた。

漫画や小説、エッセイなど出版される作品への編集者の影響力は相当大きく、編集者の力量が文字通り良くも悪くも作品の質まで決めてしまうほどだ。全てがそうだというわけではないが、名前の出ない共著者と言っても大袈裟ではない。ホホフについてはよく知らないが、Newsweekの記事を読む限り、かなり見識の高い編集者だったのだろう。それはホホフの関わらなかった、というか出版を許さなかった『Go Set a Watchman』が、8年後の現在ではもはや誰もその名を口にしなくなったことが逆に彼女の功績を際立たせている。

まあ、書かれた順、作品の出来はともかく「アティカスの変節を逆順で描いたハーパー・リーはきっと非凡な作家なのだろう」という僕の感想は変わらない。

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