I started my bike trip rather late like 10:20 this morning, because the bike’s rack for the package needed some more adjustment though I did it once before.
I thank Jackie a loooooot for everything!
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After all these decades, somehow they are always around
The following is a translated version of my former post “何十年経っても、なぜかそこに居る” on August 2nd (1st in the U.S.), 2020. In the article, I wrote about my major professor Lyle Laske, who was literally my all-time “major” influence. Regrettably, my greatest mentor and dearest friend Lyle passed away exactly two years later. I recently received an invitation from his family for a memorial open house to celebrate Lyle’s life– with the message “Bring only your cherished memories to share.” I am afraid I cannot make it to the celebration on time, but I would like to share my memory of Lyle with his daughter Letitia, son Andrew, other family members and friends. In order to do so, I quickly translated the article written in Japanese into English. There could possibly be misspellings an/or mistranslations, but Please be tolerant of such inappropriateness.
Although I don’t fish, I’ve got a minnow-shaped fishing lure made by a Finnish company called Rapala– the lure that is always around within my reach. (This small-fry-like bait may or may not be of minnow, though)
It was thirty-five years ago or so; my undergrad major professor at Moorhead State Univ. (present MSU at Moorhead) in the States, Mr. Lyle Laske used to take me out to lakes of Minnesota. One day, he took the fishing lure out of his tackle box and gave it to me. He didn’t even mean to drag me into fishing, but just wanted me to know how interesting and beautiful the form of this curtly simple lure was said he.
Ever since, this minnow has never swum in the water but always kept watching me over.
addendum:
No other person who has lived more intellectually and with a corroborate style (in the formal and/or spiritual meanings) than him is known to me. What I have learned from him, who grew up close to forests and lakes as a son of part-time hunter in Wisconsin, are so much and invaluable. Admiring him for his way of life and wishing to be like him one day, I have lived my life. However, it may end up in an unfulfilled dream… Well, I would like to live, keep trying to be up to it while the minnow’s eyes wide open watch over me (and if I do something wrong, the loon might warn me with its shrill call.)
頚椎前方固定術で入院 その3(退院、帰宅、その他)
退院の朝
昨日、退院の話がでたらもうその夜には本日(2月22日)に決定となった。今朝、食事が来たときに何時頃退院するか?と聞かれたので、普通はみんな早く帰りたいもんだから10時〜11時くらいだと言われた。夕方晩くならなければ午後でも全然OKだとも。午後ってことは昼飯が出る。今の今まで、心の中で食事の質素さ(不味いわけじゃないが、、、)に不平をぶちまけていたくせに、帰ってから一食でも手間が省けるなら、ここの病院食の食べ納めをしてからでもいいか、と思うようになっていた。
リハビリ
朝食後は持ってきたものをバックパックに詰め直し、看護師さんから退院の書類の説明と、傷の化膿止めの抗生剤その他の薬をもらった。ふと、リハビリの理学療法士さんのことを思い出した。日、月がお休みだったので、月曜は他の方に変わってもらったが、土曜日に、次は月曜ですね、と話をしていたのに、最後のリハビリ運動と施療をしてもらいたかったなあ、、、いつもリハビリは午後だったから無理だろなあ、、、と考えていた正にその時、僕の退院の連絡が行ったのか、僕のところまで来られて、午後退院であれば昼飯前に時間を作るのでやっていきませんか?とのお誘い。願ったり叶ったり!この人のマッサージ(というのかな)は、僕特有の骨格や筋肉の傾き緩みを適確に把握して、手術の傷からくるストレスを開放してくれる。いわゆるリハビリと言えば的な運動練習に加えて、筋肉の緊張や痛みを上手く緩めてくれる。しかも体の反対側の筋肉とのバランスを考えて、むやみに緩めるのではなく丁度良いあんばい。退院直前に最後の仕上げをしてもらった感じ。
210号室
リハビリから戻り、昼飯を済ませ、同部屋の患者さんたちに挨拶をした。「退院祝い」じゃないけど、長期入院を想定して友人にどっさり届けてもらったティッシュを一箱ずつ置いていった。さて、この210号室の4人は普段、ほぼ全く言葉を交わすことがなかった。もちろんたまに顔をあわせることもあったが、軽く会釈する程度だった。
ところが昨日になって、後から入ってきた隣のKさんが辛そうだったのでこちらから声をかけたら、別に会話が嫌いそうでもなく、僕と同じ頸椎手術を受けた経験や、今回は腰が原因で突然歩けなくなったことなど話がはずんだ。
今日は僕がカーテンを開けっ放しにして荷造りしていたら、向かいのMさんがひょっこり顔を出した。コロナで会社が人手不足なので手術を延ばせだの、さっさと復帰しろだのとの矢の催促が絶えないのだとか。会社という組織は人の体を何だとおもってんだ、と思ったが、長期入院になって、もう帰る机はないよ、と言われるよりマシですよね、と慰める。手術・入院は初めてだそうで、腰椎を結構複雑に修復したようだが、もっと簡単に治ってすぐ退院できると考えていたとか。でも、まだ術後4日しか経過してないから、そりゃちょっと虫が良すぎる。15年前の僕の腰の内視鏡手術はもっと単純だったから1週間せずに退院できたが、Mさんも血腫ドレナージや導尿のチューブは抜去されてるので、退院もそう遠くはないだろう。
最後に、斜め向かいのIさんにも挨拶をした。この1週間、さほどの会話はなかったが、僕より前から210号室に居た人で、一番多く顔を合わせていたから、話をせずともすでに親近感があった。
池永稔医師との出会い
さて、僕は今まで3度の脊髄除圧手術を受けた。あたりまえだけど全て池永医師の執刀。15年前の腰椎のとき、彼に巡り会えるまで6軒の病院を回り、6人のドクターをインタビューした(セカンドオピニオンというより、僕の希望にもっとも近い手法で、しかも手術回数が多く、且つ、小うるさい僕を納得させるだけの話ができる医者を選ぶのに必要な作業だ)。
最初に脊柱管狭窄と診断し、手術が必要かもと言ってくれたのは、大宮北大路にあった学際病院の医師だったが、この人の偉いのは、セカンドオピニオンを聞きたければ、京都には大きく「京大閥」と「府立医大閥」(「閥」とは言わなかったかもしれないが、、、「系」だったかも)があり、彼は府立医大出なので、知らずに府立大の息のかかったところへ意見を聞きに行くと似たようなことを言われるから、京大出身者の多い病院にも言ってみるのが良い、とアドバイスをくれた。そして具体的には、伏見の国立医療センター、国立宇多野病院、京都市立病院などを挙げてくれた。僕はそのうち宇多野と市立に行ったのだが(腰が痛く、脚が痺れて歩けないので伏見にある医療センターは流石に遠く除外)、それ以外にも、京大、府立医大系どちらか知らないが、京都第二日赤、聖ヨゼフ整肢園(ここは知り合いが大昔腰椎手術を受けたところだが、当時もう手術は行っていなかった)にも出向いた。
どの病院、どの外科医も、優劣つけがたい印象だったが、最後に行った市立病院で件の末永医師に話を聞けた。僕の心配ていうか、疑問は
- 酒が飲めない(肝臓がアルコールを上手く分解できない僕のような)人間が初めての全身麻酔に耐えられるのか?
- どうせなら、傷が小さい(つまり低侵襲の)内視鏡下手術で、短時間でできないか?
- 当時、まだまだ少し大きい傷になる顕微鏡下手術が主流だったが、内視鏡で十分な術数を積んでいるか?
- 上記の質問への医師の答えが、患者の理解能力に応じてできるだけ詳しい説明やコミュニケーションができるか?
だったが、詳しくはまた別の機会にゆずるとして、上記のような質問を完全にクリアして尚、お釣りのくる人柄が池永さんにはあった。そして即断。池永さんも、MRIで見た状態があまりに悪いから放っておけない、と、びっしり書き込まれた手帳を繰りながら空きを探してくれた。そして手を止めて「この日は非常に大きい手術があり、その後の予定を入れていないから、夜晩くなるかもしれないけど、なんとかもう一つ差し込める」と、本来なら8月まで待たなきゃならないところが数週間後の3月中旬に決まった。
そりゃ早いに越したことはないので嬉しいけど、大手術でお疲れのところ申し訳ない。凄い人に会えたなと、その日会ったばかりなのに、全幅の信頼を寄せられる気がした。だが、待てよ、、、大手術でクタクタの医者に切ってもらうって、、、どうよ、とも思った。しかし、それが杞憂であったことは手術の結果だけでなく、彼のその後の活躍や勤務状態を見ると、全く疲れを知らないのではないのか、医学界の明石家さんまか?と思えるほど。彼はいつ寝てるんだろう、と思うことが今でもしばしばある。ただ、健康でいてほしい。
市立病院の人々
さて、その建て替え前の市立病院の旧病棟は古く、設備はボロいし、飯もお世辞にも美味いものではなかった。ただ、入院患者はおっそろしく陽気な人が多かった。大部屋の住人達は廊下をまたいで行き来し、たむろし、いつも何人かずつのグループがガヤガヤと立ち話(クルマ椅子も多かったが)をしていた。そして、決まってまずい飯に毒づくのだ。ある人が調理場を覗いたら機械で刻んだ野菜をスコップで鍋に放り込んでいた、というので、食事が来る度に飽きもせず「スコップ飯」と罵る。僕は僕で、馬頭琴を持ち込んで病室でギィ~コギコと弾き、下手な喉歌(ホーミー)を唸るのだ。わずか1週間に足りぬ短い入院だったが、最初の手術でもあり、あの楽しさは忘れられない。
国立医療センターで
市立病院で撮ったMRIだかミエログラフィー(脊髄造影CT)だかを見た池永さんは「5年もすれば首にも来るかも」という予言をしていたが、はたしてちょうど5年後に、今度は前回では遠くてパスをしていた伏見の国立医療センターで手術を受けることになった。池永さんがそちらへ移動していたから。医療センターでも大部屋だったのだが、雰囲気は市立病院のそれとはかなり違っていた。あんな雑然とした人の交流は少なく、患者はみんな大人しかった。入院当初の麻酔説明のときに、東北地方の大地震が起き、手術直前には福島の原発がボンボン爆発するところが談話室のテレビで放映されていたから、そういうものが患者の心や気持ち、行動に影響があったのだろう。少なくともあの状況で陽気なジョークを飛ばす人はいない。その代わり、同部屋の人たちとは親密になった。はじめナースステーションの前の回復室で一晩中「痛い!痛い!」とヒーヒー泣き言を言っている人の声が聞こえてきて、あいつが同部屋になったら嫌だな、と思っていたら、悪い予感は当たるもんで、そのうち僕のいる部屋に運ばれてきた。
痩せ、ハゲ、色黒の貧相なオヤジで、そのくせ眼光だけは鋭く、でも子供のように痛がっている。手足が4本とも折れていて、聞くとバイク事故だとか。歩けないし、手も動かない。トイレはベッド上、食事は看護師に口に運んでもらう。聞けば元機動隊員で、その後、白バイに乗っていた警察官だったそうだ。僕は活動家ではなかったが「どちらか」といえば左シンパだった学生のときのイメージで機動隊員は忌み嫌う存在だし、ドライバーとしたら白バイなんて疫病神じゃん。子供の頃に自転車に乗っていて、やってもいない交通違反をやったと白バイのお巡りに捕まり、逃げてもいないのに逃げたと怒られたことは一生忘れない。その白バイの成れの果てが、よりによってバイクで転んでこれだ。ザマミロ!と言いたいところだが、そもそも、そんな話を僕が知っているということは、いっぱい喋ったからだ。
そんなNさんとは本当に長い時間、喋り続けた。彼は警察を早期に退職後、ヘリコプターのライセンスを取得し、大阪の舞洲で時々飛んでいたらしい。僕もアメリカで陸上単発の飛行機と北海道で滑空機・モーターグライダーのライセンスを取ったから、空を飛ぶ人との会話は楽しい。他にも個人的な話や、事故の経緯も聞いた。元警察官がどういうわけか左翼系の民医連の病院で透析を受けていたそうだが、ある晩、透析後にバイクで帰る途中、荷台のアオリが半開きだったトラックに引っかかりもんどり打って地面に叩きつけられたのだとか。僕もバイク乗りだし、過去の立場がどうであれ、とてもザマミロとは思えない。機動隊員だったというから柔道などをやっていたはずだし、白バイ乗りだったからか、、、手足が折れることで衝撃を吸収し、体幹や首、頭部へのダメージを避けられたので命をとりとめたのか、、、。そんな会話を交わしているうちに半月余りの入院はあと言う間に過ぎ去った。
相馬病院のこと
長い回り道だったが、今回の相馬病院(別に、病院名を明かしても問題ないだろう)では過去2回の入院とは、また全く雰囲気が違っていた。一般病床130のさほど大きくない私立の病院で、脊椎外来を受け持つ池永さんは週に2回しか来ない。執刀医に代わって理事長の相馬さんが形式上の主治医ということになっている。人当りがよく、見た目はちょっとどこかに医者の家系のボンボンのイメージを残す相馬医師も池永さんと同じ外科医だけど、僕は彼の経歴や医療技術、能力などを全く知らない。ただ、こまめに入院患者のところに顔をだし、話をよく聞いてくれるうえにこちらの要望への対応も早いから、まずは安心している。忙しい池永さんがいない時に、首の血腫ドレナージや導尿の抜管は相馬さんにやってもらったし医療の体制には何の不満もない。実際、昨年12月に首の不調で池永さんに予約を入れようとしたら初回の診察は2月まで待たなきゃならなかったが、理事長の相馬さんに先ず診てもらうことで、池永さんの予定に差し込んでもらうという、ちょっとしたズルをカマシたのだが、お陰で1月早々に池永さんの診療を受けられた(ただし、これが誰にでもできる方法ではない。自分で言うのも変だけど、僕の首の状態はそれほどに悪化していたからで、軽かったら相馬さんも整形の医師として、池永さんに負荷がかかるようなことはしないだろう)。そのへんの医師間連携は上手くできているようで、おかげて今僕は家のMacでこれを書いているわけ。
ベッドに居ると医師以外のナースその他のスタッフたちが作業しながら、廊下で冗談ん言い合っている声がよく聞こえてきたし、彼らの患者への接し方や対応も全く感じ悪くない。むしろ、以前の国公立の病院より好もしい印象をもった。(市立病院も医療センターも悪かったわけでは決してないが)。強いて言えば、食事は不味いわけではないが、あまりにシンプルで、スパルタンでさえある。ただ、それは僕の手術箇所が喉であり、食道が腫れているのと、果物アレルギーが異常に多いのを警戒した結果の献立だったせいかもしれないな、と思う。
ふたたび相馬病院の入院患者
また話がそれてしまった。相馬病院の入院患者はおしなべて各ベッドの閉じたカーテンから出てこない。以前の病院では、寝るときや着替え、ベッド上の排便など以外はカーテンを開け放って、顔を見ながら話をしたり、他所の部屋へ攻めて行って、ガヤガヤおしゃべりしたのだが、ここはほどんど誰も出てこない。入院病棟には談話室もあるのだが、使っている人を見たこともない。廊下を歩くと高齢の女性が数人、車椅子で窓から外をぼーっと眺めていたり、何をするでもなくナースステーションに座っていたりを見かけたくらいで、みんな何をしてるんだろうと思った。僕は体から管が取れたらすぐに、談話室に行って心配してくれている友達に電話したり、メール書いたりして時間を潰したが、他の人達はみんな北京冬季五輪を観ていたのかな。
それでも、先に書いたように、ようやく退院という日になって、全員と顔を見ながら会話できた。あたりまえだけど、どなたも気難しい人嫌いでカーテンを開けていなかった、といことは確認できた。病院から特段の指示は出てなかったけど、コロナの影響がこういう形で出ているのかも。ここではベッドの周囲のカーテンがマスクの働きをしてるのかもね。
退院
はじめ、抜糸を行う術後2週間が退院の目処と思っていたが、実際は1週間で出られた。同部屋患者さんたちにお別れし、ネースステーションで書類を受け取り、いよいよエレベーターで1階に向かう。もう戻らないでください、と言われた。それは病気が完治するように、というはなむけ言葉ではなく、入院前にPCRと個室隔離を経て入ったコロナフリーの病棟には外に出たやつが舞い戻っちゃ困るという意味。齡70だと高額医療費の手続きをせずとも、支払いの頭切りが自動的に適用され、クレカでちゃちゃっと支払って、外に出た。あっけない入院の幕切れ。天神さんの鳥居が暖かく明るい陽を浴びていて、もう春の気配が感じられる。
帰途につく
市バスに乗って西陣の旧茶店(旧自宅)に立ち寄り、置いてあったCiaoを引っ張り出して、バックパック背負って乗ってみたが問題なく走れる。コケたらヤバいのでゆっくり走る。途中、入院中の買い物を頼んだ友人ちに立ち寄って精算(緩い液体が飲み込めなかったのでとろみ剤と、思いの外たくさん使ったテュッシュペーパーは本当にたすかった。
原谷に近づくとパラパラと雪が舞い始める。まだ2月だもんなあ、、、。積もらんでくれよ、、、。ていうか、原チャで帰宅したって病院に知れたら怒られるやろなあ。(ナイショナイショ)
冷え切った家に入ると、年末以来、体の自由がだんだん失われて散らかりっぱなしの室内に、病院のほうが良かったかも、と一瞬思った。(でも、指先の感覚、両手両腕の機敏性、巧緻性、可動域、力が戻っているんだし、何よりC5麻痺が起きていないから、文句は言うまい。
手術は大成功。メデタシメデタシ!
頚椎前方固定術で入院 その2(手術から退院)
昨年12月に急激に悪化した手の痺れ等の原因を取り除くために、2月14日から入院したことは前回書いた。
明けて15日、朝食抜きで午前中に点滴が始まった。さらに午後一番に手術開始のため昼食も当然なし。腹を空かせて戦に臨むかなりトホホな心境。
1時からの予定が30分押しになる。早くやってよ〜。手術が待ち遠しい訳じゃない。できることなら回避したいが、長く放置すればするほど脊髄や神経根にダメージが残る。治るものも治らなくなる。腹減ったなあ、、、とか思ってるうちにストレッチャーがお迎えに来た。
手術室に入る前に、この世の見納めになるかもしれない景色を眺めておこうとキョロキョロしていたら看護師さんから、ここは舞台裏の楽屋だから物置きみたいに散らかってるんで見ちゃダメよ、とジョークが飛ぶ。舞踏やってる友人の手伝いで名古屋大須の小劇場の楽屋で寝泊まりしたとか、京都の伝説的ストリップ劇場DX東寺の踊り子さんの楽屋を訪ねたことがあるけど、こちらは全然整然としてますな、とかなんとか、しょーもない返しかできない。余裕ないな。
位置について、オペの機械やランプを見上げていたら、麻酔医の方が自己紹介してくれた。間をおかず、では麻酔を入れますからね〜、、、で暗転。
目が醒めたのは翌日の朝。コロナ禍の折、ここのようなあまり大きくない病院は術後の患者ケアにマンパワーや設備リソースを割けないので、通常のように直ぐに麻酔から覚醒させ、酸素と痰のチューブを抜いて特別な回復室に入れるということはしないからね、と主治医から言われていたので特段驚きはない。それでも、個室ではないにしても、ナースステーションの直ぐ前の部屋で、目を開けたら直ぐに看護師がきてくれた。
首の左前を数センチ切ってるのだが痛みは全くない。全く触覚がなかった指先がなんかチリチリするんで、指同士擦り合わせてみたら、100%ではないにしても触っている感触が戻っていた。おおっ!手術成功じゃん!
執刀医の池永稔医師は15年前の腰椎脊柱管狭窄の内視鏡下手術と10年前の(今回と同じ)頚椎前方固定術の2回、切ってもらってるので何の不安もない。むしろ、頚椎と脊髄の故障から下手すれば全身麻痺にもなりかねない不安から解放されたのに、感動が足りなくね?と自分で突っ込んでるほど、池永さんには信頼を寄せている。
ともあれ手術は終わり、無事目が覚めて、そうこうするうちに昼になったら、何と飯が出てきた。いわゆる普通の病人食でめっちゃ美味そうとは思わないが、腹は減っているんで、唾液が出る。ところが、自分の唾ですらゴックンできない。これではお粥も無理じゃない。
嚥下ができない理由は、数時間の手術中に頚椎を前方から露出させるために首の中央にある気管と食堂をドッコイショと横に押し退けていたことで一時的に喉周辺の器官に麻痺が起きてること、さらにそこに炎症も加わり、呑み込むという行為をコントロールできなくなったためだ。
体を起こした状態では液体はことごとく気管に流れ込み、激しくむせかえる。飲食どころではない。完全に仰向けに寝て重力で喉の奥にある咽喉に落とし込めばむせることはない。それでも、水もお粥も食道にはいろうとしない。めっちゃ痛いが、無理に咀嚼、嚥下を行おうとするとせっかく咽喉まで行ったのに咽喉盖が閉じてないので気管へ逆流して、また激しく咳き込む。そこで、農道的な嚥下を諦めて、咽喉に溜まった食物を次に新たに送り込む食物で押し下げるという「芸当」を発明した。
まず、仰向けでお粥を喉に流し込む。お粥は気管に入らず、かといって半詰まりの食堂にも行かず、咽喉に溜まる。
そのまま、次のお粥をスプーンで流し込むと、当然、咽喉から溢れて気管に入りそうになる。
その瞬間を感知したら、口を閉じたまま肺から空気を鼻に抜くように吐くと、咽喉蓋辺りのお粥は押し出されて喉と鼻の境目の軟口蓋(ノドチンコのあるあたり)まで移動する。強すぎると「鼻から牛乳〜♪」みたいにみっともないことになるし、鼻も痛くなる。
そうこしていると、咽喉に溜まっていたお粥は食道のわずかな隙間から少しずつ胃のほうへ移動を始める。軟口蓋のあるあたりの背中側の壁にへばり付いていた二口目のお粥も少しずつ咽喉へと流れる。
という、誤嚥性肺炎と鼻から牛乳の狭間でのせめぎ合いをやること2時間。術後最初の食事に出されたものを食べ切った。(正確には、パサパサした魚の切り身はこの芸当が効かなかったので残したが、、、)
この嚥下障害は単に腫れているだけだから、日にち薬で、今日で術後1週間目だが、すでにほとんど正常な嚥下ができるまでになってきた。まだ大きな塊は呑み込むのに苦労するが、しっかり咀嚼しておけば問題ない。3日ほど前から、自販機でキリンレモン強炭酸無糖を買って飲んでみたが、炭酸ガスでえらいこっちゃ、になるかと思いきや、よく冷えた飲み物は腫れた喉に気持ちよく、炭酸の刺激も咽喉蓋をひき締めるのか、普通のお茶より上手く飲める。翌日、売けれていて残念。みんなこれが良いのを知ってるのかな。それとも消毒アルコールと混ぜて闇酎ハイ作ってるのか?(笑)
以前の首切り手術では、C5麻痺という腕が動かなくなる合併症が出たため、抜糸までの2週間は病院に留め置かれた。今回も、一応2週間を退院の目処に、傷や炎症、感染などの状態次第ではもっと、と言われていた。
ところが、執刀が上手なのか、僕の体が異常なのか、傷は全く痛まない。前回も首の傷は痛まなかった。それより自分の腸骨(骨盤)から取った骨のブロックを植え込んだがその傷の方が痛かった。この十年の医学の進歩で人工骨が使えるようになって余分の切開もしてないし、ほんとに切ったの?と思うほど。喉の痛みの方が辛い。
その喉の痛みも、嚥下障害も、日を追って改善してきた時に、担当看護師から退院の希望日を聞かれた。まだ術後5日めなんですけど、、、。それに、執刀医と同じく外科医である病院の理事長も毎日来るけど退院の話はしていないから、想定外だった。
それが、昨日(術後6日目)に理事長が来てくれて、今夜は池永さんが来る日だから、外来診察後に診てもらい、OKが出たら明日退院ですね、と。池永さんは、寒邪を丁寧に診るし、説明もしっかりしてくれる上に、質問したらしただけ、また詳細ね答えてくれるんで、とてもありがたく、それだからこそ15年前に6軒の病院を回って会った医者から彼を選んだんだけど、、、贅沢な問題だけど、診察に時間をかけるから、予約時間から2時間くらい待たされることもある。
今回の入院の見回りで池永さんが1回目に来てくれたのは夜中の12時だったらしい。隣のベッドの患者さんはしっかり起きていて、話をしたらしいが、僕はうっかり眠りこけていたから、起こさずにおいてくれたらしい。いやいや、話を聞きたかった。そんで理事長にもし寝ていても、起こしてほしい旨頼んでおいた。
さて、9時の消灯時間が来て、あと3時間くらいはYoutubeでも観ながら待とうか、とベッド上でゴソゴソしていたら、な、な、なんと9時半に池永さんがやってきた。「痺れ、痛み、ありませんか?今日撮ったレントゲン、問題ないです。じゃ明日退院ということで、、、。首の装具、しっかり着けておいてくださいね。」以上。あっけなく退院決定。
本当は根掘り葉掘り、病気のこと聞きたかった。しかし、他の患者も待っているだろうし、何より、こんなに早く診療が終わるのは珍しいから、いつ寝てるのか休んでるのかわからない、激務の医者にはこういうひは是非とも早く帰って休んで欲しいと思った。
てな訳で、朝が来たらいよいよ退院。またKungusledenで使ったバックパックに一切合切詰め込んで帰途につく。1週間と1日のショートバケーションを終えることになる。