「日記」カテゴリーアーカイブ

失敗ではない、、、ってさ。

原子力で見積もり通り、予定通りに運んだことってあるか?
たとえば原発の安全性、たとえば高速増殖炉、たとえば核燃料サイクル、どれも破綻してる。
 
既存原子炉をまともに廃炉もできるかどうかも怪しいのに、福島の廃炉計画に予算や期間が明記される。しかも案の定どんどん金額は膨らんで当初見積もりの倍になってるし、どうせ期間だってずるずる延びるに決まってる。
 

先日福島第一の2号機内部に東芝と国際廃炉研究開発機構の作ったさそり型の調査ロボットが投入されたが、炉内に入った途端あっさりと壊れた。高い放射線量で壊れるまえに、クローラー(いわゆるキャタピラ)に堆積物のカスが挟まって動けなくなった、だって。シロートの僕が見てもちゃちで壊れそうだったもんな。高専のロボコンレベルのシロモノ、、、(あ、高専の生徒さんに悪いわ。ごめん)

なのに東電は「失敗ではない」と言い張ってる。圧力容器内部を動き回って状況を観察し、底部に溶け落ちて溜まっている(いや、底を貫いて地中食い込んでるかも、、、)燃料デブリまで撮影できるかも、と言っていたはずなんだけど、実際に出来たのはレールの上を僅か数メートル進んだだけ。わずかな写真撮影と線量を測っただけ。ロボットが見た目通りに役立たずだったと証明しただけだ。(お値段おいくらなんだろ?)

失敗ではなかったのなら成功なのか?たとえば人工衛星を打ち上げようとして、ロケットの第一段目は点火したけど、発射してすぐ停止、二段目も衛星も海に落ちたら、それは成功とは絶対言わない。誰が見てもあからさまに失敗だ。こういう役人や政治家みたいな言葉の使い方が、東電の隠蔽したり事実を曲げたりする危険な体質を現している。(南スーダンで自衛隊が巻き込まれたのは「戦闘ではない」と言い張るどこぞの政府と同じ)

炉内偵察ですらこの体たらくで、内部のデブリの位置さえ判らないのに、対応する技術も実際の解体機器も開発はおぼつかない。それで「いついつまでに廃炉」なんてよく言えるなと思う。

絶対確実なのはあと数十年(いや百年以上かも)、マッチポンプみたいな原発メーカーは廃炉ビジネスで儲け続けられるってことだけ。ただ、東芝は来年まだ存在してるかどうか知らんけど、、、

クソの垂れ流し、ケツの拭き忘れ

以前、FacebookなどのSNSに失望して、やめると騒いだことが何度もあった。またその兆候が出てきている。今もまだSNSは悪意のガセネタ、フェイクニュースなどで溢れかえっているから、見ていてとても気分が悪くなる。

僕の知り合いや友人の中にはそんな有害な情報をわざわざでっち上げて流布る人なんていない(と思いたい)。しかし、しかしだ、、、何人もの知り合いが、自分ででっち上げたのではなくても、騙されて、インチキなブログ記事をろくに内容も精査せずに無批判、無自覚にシェアしているのを見ると、放っておけなくてついつい要らぬお節介なコメントをしてしまう。

フェイクのネタ製造元のヤカラはともかく、そうと知らずにシェアした人達には悪気が無いのだが、、、それがためにどれだけの人が傷つくか、ということを考えていない。中身もわからないまま記事のタイトルに煽られて、リンクを張ったり、シェアしたり、、、悪意がないからと言って害毒の拡散に加担していることには変わりない。騙されたのだから被害者だということにはならない。無分別の彼らはフェイクニュースの共犯者であり、加害者でもあると思う。

よく読まないどころか、読む前にとりあえずシェアしておいて、自分は「後で読む」ってのを批判したことがあるが、これも悪意じゃなく、単に今は時間がないからと、まるでメモ代わりのように、とりあえずリンクしておこうかというもの。タイトルだけで中身の判らないものをバラ撒くって、なんでそんな無責任なことができるのか。僕には理解できない。

こういうお気楽な、無責任な人たちは、無邪気に自分で流した情報について何のフォローもしない。それが間違ったニュースや悪意の情報であったと判明した後は特に完全シカトを決め込んでいる。そんな人達でも安倍やトランプの厚顔無恥で危険な嘘メッセージを非難し危惧しているのだから、やんなるなあ。。。恥ずかしくないのかな。いや、恥ずかしいから自分のケツも拭かないで素知らぬふりをするんだろうな。

例えていうなら、尻を拭かずクソの付いたままのケツで、パンツも穿かずに電車のシートに座り、くっさいクソを座面になすくり付けておいて、自分はさっさと降りてしまう、って感じだな。そういうことをやるかねえ、普通。

そう言うお前、何様や!と怒られそうだな。僕も自分の書くことにすべて裏を取っているわけじゃない。間違ったり早とちりも多々ある。でも、他所のサイトをリンクしてシェアするときはできるだけ読み込んで、納得いくものに限っているし、必ず自分の考えをコメントとして添えている。まあ、それでも心してSNSを使っていこうとは思うが、こんな気分にさせられるのが続くなら、やっぱやめたほうが体には良さそげだ。。。


Fiat 500 ハンドル

うちのチンク号、ベークライトのハンドルが、なんとも細くて握り心地が心もとない。自転車用のグリップテープを巻いていたけど、ベロベロ剥がれて美しくなかった。

やっすいステアリングカバーを買って縫い付けてみた。ノーマルのハンドル用で幅が広すぎ。余分を内に折り込んで幅を合わせた。ついでにクッション厚も増してやった。

夕方からダラダラやってたら日が暮れてしまった。かろうじて縫い目が見える内に終了。

なかなか良い感じ。太さが増し、適度な弾力で握っても違和感がなくなった。安物の合皮だから長持ちしないだろうけど、次は自分で本革を切って縫ってやろう。

カバーの幅が広すぎるので、内側に折り込んで装着。(仮合わせ中)
本当はクロスステッチが野球ボールのシームのようにしたかったけど、糸が足りそうにない。
セットで付いてきた針は先が尖ってないので縫いにくい。
縫いあがり。まあこんなもんか。。。
ねじれを直して、糸を切って完了。
濃い色でもよかったかなあ、、、

Midnight Breakfast

It’s getting colder outside. I see snow sprinkle over my Fiat. Gotta hit the hay but can’t sleep for some reason…

Though not necessarily feeling hungry, I cook food with a skillet on the wood pellet stove, and eat the stuff– not so tasty as expected– uh,  as unappetizing exactly as anticipated, actually. That’s my midnight breakfast, anyway.

TV’s boring. Stomach’s full. I know I gotta go sleep now.


April Come She Will

追記)この記事を投稿してもう長くなった。改めてネットを調べてみたら以下で指摘した誤訳が減り、正しく「倒置」を踏まえた訳や解説を多く見るようになっている。この中高生でもわかるような「三単現のS」の欠落を見つけたのは僕が高校の頃だから、半世紀以上も発っていることになる。少しずつ時代は変わってる。


ポール・サイモンの曲「April Come She Will」は僕の高校時代のお気に入りだった。季節の移ろいに儚い恋が滅びてしまうという内容は青くさい高校生だった僕にはなかなか実感の湧かないものだったが、、、。

今の歳になって振り返ると、歌詞中の”she”がやがて死んでしまう恋人ではなく、とおの昔に失った僕の青春そのものに重ね合わさり、切なくほろ苦い。加えてアート・ガーファンクルの甘い歌声がもうたまらない。。。

ところで、日本語のタイトルでは「四月になれば彼女は」と訳される。しかし、僕はこれが気に入らない。いや、完全に誤訳とは言い切れないのだけど、、、

まず、Aprilは本来なら名詞だがここでは副詞的(= in April)に使われている。だから「四月に(なれば)」というのもあながち間違いとは言えない。しかしそれに続くcome she willを「彼女は・・・」と余韻を残して動詞を切り捨てたと見るのはどうかと思う。(もっとも、それくらい訳者の裁量だろ、という考えもあるかもしれないが、、、)

“April come she will” を “(When) April comes, she will ・・・”と解釈するのだったらそれでもいいかもしれない。しかし、comeには三人称単数現在形の「s」が付いていないのでその主語にsheはありえない(うわっ、「三単現のS」って言葉を何十年ぶりに思い出してしまった!)。つまり、このcomeは本来ならshe willに続く原形の動詞で、行頭のAprilと行末のwillが韻を踏むようにかなり強引に倒置されたものだ。ちゃんと書くならIn April, she will come、すなわち「四月、彼女は来るだろう」となる。

おそらく、日本語のタイトルを訳した人はこの倒置法に気付かず、またAprilの副詞的な用法にも頭が回らなかったのだろう。そのため頭から ”(When) April comes, she will ・・・”と見て「四月になれば彼女は」という思わせぶりな尻切れトンボのタイトルにしてしまったのだと僕は思う。

昔、僕が持っていた歌本には”April come she will”だったが、改めて歌詞をネットで調べてみたら”April, come she will”とカンマを入れてAprilはcomeの主語ではないことを強調しているものが多く見られる。(実際にP. Simonがどう書いたかは定かではないのだが、、、)


以下追記:

更に言うと、この”she will come”(来る)は1番の中の次の段で同じ主語の”she will stay”(留まる)に繋がる。ちなみに、以降の2番、3番でも関連のある動詞が対として使われている。2番では”change”(変化させる)と”fly”(飛び去る)、3番では”die”(死ぬ)に対し、一転して主語を”I”に替えつつ”remember”(思い出す)と。しかも、それらに続く文や節や語句も注意深く選りすぐられている。(そして全体を通して見れば見事に「序破急」を成しているのだ)

April come she will
When streams are ripe and swelled with rain
May she will stay
Resting in my arms again

四月はあの女(ひと)が訪れるだろう
雨に潤うせせらぎが水満ちるころ
五月には憩うだろう
ふたたび我が腕に安らぎながら

June she’ll change her tune
In restless walks she’ll prowl the night
July she will fly
And give no warning to her flight

6月になるとその女(ひと)は心もそぞろ
おろおろと歩き夜をさまよい
7月には飛び去るだろう
その飛揚に何の前ぶれもないままに

August die she must
The autumn winds blow chilly and cold
September I remember
A love once new has now grown old

8月にその人は命果てる定め
秋風が凍えるほどに冷ややかに吹き
9月になるといつも私は思い起こす
かつて新しかった恋も今や古びているのだと

Lyrics by Paul Simon