「日記」カテゴリーアーカイブ

たどりついたら

2015-09-15 00.55.39たどりついたら一人の部屋
 
裸電球をつけたけど
 
又 消して
 
みんなの顔を思い出しながら
 
終わったなと思ったら泣けてきた

                     (唄:ボロ)
・・・なーんちゃって。(笑)
 
馬に乗って遊んでます。
はいっしどうどう、はいどうどう〜♪
 
旅の、本当に最後の乗り物はコレでした。
ちゃんちゃん。

2015-09-15 01.09.31


上小阿仁村八木沢へ

2時間以上あるいて、あと1km
2時間以上あるいて、あと1kmまで来た

先日間違えて行ってしまったバスの終点にまた舞い戻り、そこから9km余りの道を歩いて上小阿仁アートプロジェクト八木沢会場へ向かった。谷や山や川の流れや樹を見ながら2時間半の歩きもあっというまだった。

道中トチの実が豊富に落ちている。クマには出会わなかったがそこらにいそうな気配。杉の皮がところどころ剥がれていて、爪傷もついている。八木沢は山深いところだが、そこに至る谷道はなだらかでほとんど登りを感じない。

昼前に到着し、集落に点在する作品をブラブラしながら観て歩く。途中、彫刻作品近くの鳥居の下に腰を下ろしてオシラサマ馬頭琴を弾いてたら人が寄ってきた。あ、これは作品じゃないんですけど、、、とか言い訳しながらも、やめずに図々しく弾き続ける。

感じのよい老夫婦からいろいろ質問を受け、あれこれ答えたりしているうちに、一緒に作品を見て回り、帰りは車に乗せてもらえることになった。

会場をぐるっと一周しカフェでお茶。カウンターで接客してる女の子の名札みたら、別の会場で作品を観たアーチスト。会期終盤なのでもうアーチストは残っていないと思っていたので、おおラッキーと話しかけてみたら、、、 彼女は京都の人で、僕の日本での最後の学校だった精華大学出身。ヲイヲイこの山の中で後輩に会うか?(笑)

そのまま話が弾み、カフェでもまた演奏。他のお客さんもいるというのに、ちょうしこいてホーミーも鳴らしてしまう。カフェの中の人がみな寄ってきて、スタッフのお兄ちゃんから怒られると思ったら「感動しました」って言われて、僕ごときのなんちゃってギコギコ演奏に感動してもらったら困っちゃうなあ。これが嵯峨治彦さんだったらその人どうなっていたことだろうと、、、(笑)

明日は上小阿仁村アートプロジェクトのクロージング・イベント。ここに来ていることをFacebookで言いふらしたら、先日の秋田市と大仙市での嵯峨さんのライブを仕掛けてくれたM.I.さんが、クロージングの音楽を担当してるって連絡くれた。うひゃ、またかよ!オシラサマ馬頭琴の旅の軌跡は、どこまで行ってもいろんな人とクロスする。それがもう日常茶飯事で、驚くことが起きても驚かなくなる。(でも、今回の秋田の旅は、あちこちに種を蒔き仕掛けてくれたTさんの謀略で、僕はそれにズブズブと自ら喜んでハマったとも言える。感謝!!!)


帰らない、 帰れない

去年の今日、オシラサマ馬頭琴製作の旅の第一歩を踏み出した遠野に着いた。

今日現在、完成したオシラサマ馬頭琴と一緒の旅はまだ続いている。

昔、角館の熱い祭りに参加するために北海道の大学へ戻る切符を破り捨てた友人はその後、無事学校を終えてなんと秋田の人になった。(理由は言わずもがな)

十数年の時を隔て、その友人に誘われ僕も祭りと引き換えに、彼の情熱の何分の一かをもってこの旅の帰り切符を見限った。

ま、ヤフオクで安く買った青春18切符のたった2回分だけどね。(笑)

誰か、欲しけりゃやるよ!
有効今日限り!あと30分、
JR全線一日中乗り放題×2・・・使いきれるかな?(笑)

2015-09-10 23.02.01



三陸海岸南下の中止

去年来そびれた三陸海岸を、八戸から女川まで車、バス、徒歩、南北リアス線、JR線で のんびり旅することができた。途中、リアス式海岸の開けた湾岸の街や集落だったところには瓦礫や廃墟は殆ど見えない。ただ、まばらに点在する真新しい建物と、不釣り合いに広い更地が続く。

僕のこの旅は報道や取材ではなく、言ってみれば個人の物見遊山。たいした支援もできなかったくせに、復興しつつある東北の太平洋岸を下りながら、昔の記憶にある三陸海岸と、今の状況を突き合わせてみたいと思っていた。しかし、道中たまに見かける津波の爪跡を写真に撮る気は起こらないし、出会った人たちに根掘り葉掘り訊くようなこともしたくなかった。(実際には何度か反射的に廃屋にカメラを向け、何枚か撮影したが、すぐに「何のために、誰に見せるために撮ったのか」という自問とともに嫌悪感に襲われ、すぐ削除してしまった)

予想外だったのは、出会った多くの土地の人たちがただの通りすがりの旅人でしかない僕に、4年半まえの津波のことをこちらから尋ねるまえに淡々とはなしてくれること。直接被害に遭った人もそうでない人も。。。 忘れないで欲しいという直接的な訴えよりも強く、問わず語りのような体験談に忘れてはいけないという気持ちを改めて持たされた気がする。

さて、秋田から来ていた友人と女川駅で合流し、案内されて竹浦という地区へ。その友人から聞いたのは竹浦の被災住民の、震災後の混乱の中で避難先でも被災前のコミュニティを壊さないという選択と、その重要性を理解し受け入れた秋田仙北市の決断、そして、どちらの側にとっても突然降って湧いた状況に対して、心の準備のないままでの英断は非常に稀有だけれど重要な例。今後日本中でいどこでも起こり得る震災の後に、被害者と支援者はこうあるべきという関係のモデルケースとなるという話。

悲しいきっかけで始まったのだけど、広大な奥羽山脈のあちら側とこちら側で遠く離れ、行き来のなかった地域にある、秋田と宮城の二つの小さいコミュニティの交流は今も続いているという。

壊滅した竹浦で無傷で残った高台の小さい神社の社殿のほんの1メートル下には津波到達の最高水位を示す赤ペンキのラインが引かれている。境内には昭和8年3月の地震の後に建てられた「大地震の後には津浪がくる」という石碑と昨年女川中学卒業生たちによって建てられた地震と津波への対処を記した石碑が並んでいる。町内数カ所にあるその碑の冒頭には「津波が来そうなときはこの碑より上に逃げろ。この碑を動かすな」という注意喚起とともに、結びには「今、女川町はどうなっていますか?」という問いかけが刻まれている。地震と津波の体験を後の世代にも「今のこと」として受け止めてもらうために。

石碑の後ろには女川湾が見下ろせて、対岸の山の向こうには女川原子力発電所の排気筒が2本、支持トラスの鉄骨一本一本が見分けられるほど近く見えている。原発が生み出す放射性廃棄物をたとえ地中深く埋めたとしても10万年というオーダーで忘れ去られないように管理しなければならないということ(そんなこと不可能なのに、、、)と、津波を忘れないための努力とが、何故か頭のなかをぐるぐる回っていた。

神社の向かい側には、更に高い所に住民が帰る宅地の造成が行われている。震災前からこの地に移り住んでいて被災し、地域の再建に協力されている建築家の方と神社でお会いしてお話を聞くことができた。その方や友人が言うには、竹浦へ戻る住民の逸る心とは裏腹に工事が遅れがちなのは仙台での地下鉄や東京オリンピックの影響で作業員や重機の確保がますます難しくなっているからだとか。地下鉄はまだしも、オリンピックなんぞは日本がやるべきことをやり終わってからだろう!と僕は部外者ながら歯ぎしりした。

その後、大勢の児童が犠牲になった石巻の大川小学校の廃墟へ。僕一人で女川へ来たとしても、ここには足を向けなかっただろう。先に書いたように、被災建物や仮設住宅にカメラを向けられない自分がいて、道中のバスが、壁も什器設備も人も一切合切流されて鉄骨だけになった南三陸町の防災対策庁舎が近づいたときは思わず目を瞑ってしまったほどだから、可愛らしくモダンな造りが却って生々しい大川小学校も直視できないだろうと思っていた。しかし、運転手は友人。僕以外の同乗者(竹浦支援に関わった秋田の方々)もあって、彼がそこへ行くと言ったときに、僕に選択の余地はなかった。そうしたら、とたんに気持ちが切り替わり、これは行っておかねばならない、と思った。

遅まきながら三陸海岸へやって来て、被災地域をうっすらと撫ぜるような旅でも自分なりに感じるところ、思うところはあったけれど、友人のお陰で、女川・石巻で今回の沿岸の旅のエッセンスに遭遇した気がする。そして、ここでひとまず南下を止めて、友人たちと一緒に秋田へ戻ることにした。双六の「振り出しに戻る」になって、たぶん、今回はこのままゲームセット。明日から3日間夜通しで角館のお祭りを見て、10日に一目散で京都に戻ろうと考えている。(ただ、、、旅の予定と秋の空、、、いつコロッと変わるか、、、(笑)

2015-09-01 17.49.16