チベット萬歳テカルのCDを聞きながらつらつら思ったこと。。。

涼しい地下で午睡を貪っていたら突然インターホンのチャイムで叩き起こされた。

渋々階段を上がってみたら佛大の某O野田教授。(いっつも突然遊びに来るんでびっくりするがな、、、もうっ!)

千北の大学から彼が所長やってる広沢の宗教文化ミュージアムに移動途中に、前日お願いしていたCDを持ってわざわざ立ち寄ってくれたのだった。

チベットに「テカル」という三河萬歳や尾張萬歳によく似た掛け合い話芸があって、O野田さんは先日もテカルについて考察したミュージアムの研究紀要『チベットの萬歳芸テカル』を届けてくれたばかり。その時にテカルの話芸を録音した音源があったら欲しいと頼んでいたんだった。(不義理な僕と違って必ず手土産をもって来てくれる律儀な気遣いの人で、だから出世するのかな、、、W。突然来られても文句は言えぬ)

テカルは芸人コンビがロサル(チベットの太陰暦正月)に門付けして回る芸能で、(日本の伝統的萬歳における)才蔵役が話を振り、それを受けて太夫役がやたらと目出度いことを延々述べて褒め倒すという、縁起ものの話芸なのだとか。小論文にはWilie(チベット語のローマ字表記方式)のテカル文言と対訳が載っているので、意味を知り、文字を音読してそれなりに雰囲気は掴んでいたつもりだけど、CDでテンポ良く歯切れの良い口上を聞くと、未だ見たこともないテカルの様子が頭のなかに浮かぶ。
(”Bras Dkar”で検索したが画像も動画も殆ど無い。かろうじてロシア語のサイトに写真が何枚かあった)

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テカルの芸人?と思しき男性。 http://savetibet.ru/2017/02/17/print:page,1,tibetan_losar.html より
http://savetibet.ru/uploads/posts/2017-02/1487337675_7_4.jpg
テカルの芸人?二人ともマスクを着けるのか、は判らない。 http://savetibet.ru/2017/02/17/print:page,1,tibetan_losar.html より 「テカルとは別の踊り中心のタシショパの芸人ではないか」by O野田教授

僕が学校へ上がる前の子供だった頃は、京都市のど真ん中のうちにも時折、流しの獅子舞や虚無僧が来たものだ。三河か尾張かは判らないが萬歳も来た。大黒さんのような頭巾を被りモンペみたいな裁付を履いて小鼓を持ったおじさんと相撲の行司みたいな格好のおじさん二人組が、鼓を打ちながら大げさな身振り手振りで何か面白そうなことを言っているらしいのだが、子供には理解できないことを延々とやってくれたのを憶えている。(そして、僕はそれを上り框のうえで面白がって延々と観ていた。彼ら、母がお金を渡すまでやっていたっけ。。。意味の判らないものはすごく長く感じただけで、実際はほんの1、2分だったのかもしれないが、、、)
近代では砂川捨丸・中村春代のコンビが伝統萬歳から引き継いだと思われる小鼓と先の開いた扇子を持って「漫才」を行っていた。面白いのは捨丸が太夫のように主に喋り、春代が才蔵のように合いの手の役なのに持ち物が「萬歳」のそれと入れ替わっていること。捨丸の芸には唄や音曲が入る。尾張萬歳にも鼓だけでなく、三味線や胡弓の演奏を伴う演目もあるらしいから、これも伝統の継承なのだろう。しかし捨丸の後を継ぐものは出ず、現代の漫才には鼓を使う芸人はいない。唄、音曲という点を見れば絶滅危惧種の「〇〇ボーイズ」や「XXショウ」(コント芸のコミックバンドとは違う)が萬歳の末裔なのかもしれないが、すでにテカルとは形態的に大きく異なってしまっている。

ちなみに、紀要の中では唄や音曲について触れられていないが、貰ったCDのテカルにも途中にダムにェンの演奏と唄が入る。O野田さんは学者らしく慎重に、互いに極めて似通ったテカルと萬歳の「関連性について不用意な推測」は避けるとしている。しかし、たとえ全く関連がなくとも、絶滅した爬虫類のイクチオサウルスと異種の哺乳類であるクジラの仲間のイルカが異なる時代に完全に別個に進化した結果、互いに非常によく似た姿になった「生物の収斂進化」と同じく、テカルと萬歳の類似が異文化における芸能の収斂進化と見ればそれはそれで面白いと思うんだが。。。



山の暮らし探訪(その4)

椿山のサンちゃんの家から外に出て、斜面を見下ろすと集落の中央あたりに背の高い一本杉が見える。そのすぐ傍に現在唯一人の住人となったおばあさんの家があるという。30度以上ありそうな急斜面の狭い間道をほぼを直滑降のように下り、谷底からジグザグに登って来る車道を一本越えて、一本杉を目指してまた間道を行くとお堂の横に出る。朽ちかけた標識に「氏仏堂」とある。ここで年に5回、太鼓祭りを奉納するお祭りがあるとのこと。サンちゃんから祭りはもう6月20日の虫送りしかやってないと聞いたが、彼女自身が参加するのが虫送りだけなのか、それ以外の祭りは廃れてしまったのか聞き漏らした。

氏仏堂の向かいの家の入り口でサンちゃんが「シゲちゃーん」と、子供が他所の家に遊びに来たときのような調子で呼んだ。ややあって、奥の方からシゲちゃんが出てきた。突然の僕達の来訪に「農作業中だからこんな格好で、、、」と着ているものを気にされていた。申し訳ない。ただ、今回のツアーを企画してくれた桜井さんが椿山での生活のこと、作物のことなどを丁寧に尋ね、話をするうちに打ち解けてきたようだった。話がはずみ、帰り際にはわざわざ覆いを取って在来種のジャガイモの種芋を見せてもらうことができた。

氏仏堂向かいのシゲちゃんと在来種の種ジャガイモ

シゲちゃんは愛媛に嫁いだのだそうだ。松山市と高知市を結ぶ直線のほぼ中間に位置する椿山だから、サンちゃんの兄弟姉妹も高知と愛媛に散らばっているという。彼女らは遠くに居ても、いや遠くに居たからこそ椿山への愛着が消えなかったのだろう。シゲちゃんは8、9年ほど前に椿山へ戻られたそうだが、その頃はまだ何人かの住人が残っていたそうだ。みんな亡くなったのか、山を下りたのかはわからないが一人になっても残っているシゲちゃんは強い人だ。転勤で飼えなくなったと息子さんが置いていったダックスフントが唯一の話し相手だけど、年取った犬の世話は大変とも。。。

話は飛ぶんだけど、僕が20代の半ばに京都市北部の山間部に引っ越して間もない頃のこと。膝まで潜る大雪の朝にジープでラッセルしながら無理やり街へ出ようとして、芹生という山奥の小さな集落から峠に登る道で路肩を見誤り、車ごと谷川に転落したことがある。当時既に過疎が進んでいた芹生に冬期は人が誰もいない可能性があったが、無人でも電話くらい使わせてもらおうと道を下って行ったところ、運良く1軒の葛屋(クズヤ=茅葺き家屋)から煙が昇っていた。そこは辻戸さんという家で、腰の曲がったおばあさんがたった1人で、秋田犬のような大きな犬と一緒に暮らしていた。

電話を借りて車を引き上げる目処がつき、助けが来るまでの間、薄暗い土間のおくどさんの傍で暖をとりながらおばあさんと世間話をして過ごした。大阪の河内から嫁に来たんや、とおばあさんは言った。当時、京都府下だった僻地の芹生で聞く大阪という遠く意外な地名の響きが不思議だった。おくどさんでパチパチ燃える薪の音以外なにも聞こえない雪の中で二人きりで居ると、まるで昔話の世界に迷い込んだかのような気がした。

真夏の陽がカンカン照りつける椿山で小さなダックスと暮らすシゲちゃんに会ったとき、雪に降り籠められた芹生で大きな犬と暮らしていた辻戸のばあの姿が重なって見えた。

シゲちゃんとさよならして、車の待つ学校跡とおぼしき椿山交流センター(公民館?)に向かう。途中、シゲちゃんがサンちゃんに話していた「ハミ」が出るという場所を通る。ハミとはマムシのこと。その場所には「ハメ・・」と書いた棒が立てかけてあった。これでぶっ叩くのかな。交流センターの駐車場は鉄骨の上に作った人工地盤。見晴らしは良いが、ここがグラウンドだったのか?仁淀川町は町長選真っ盛りなので、シゲちゃん専用の候補者ポスターが2枚貼ってあった。椿山へ来る途中で選挙応援の集会流れの人混みや選挙カーも見たがさすがにそれはここには来ないだろう。。。

夕方高知市内に戻り、サンちゃんともお別れ。翌日は高知の岡豊城跡に建つ県立歴史民俗資料館と五台山にある県立牧野植物園を訪ねた。いずれもお世辞抜きに素晴らしい施設だが、それはまたの機会に。


山の暮らし探訪(その3)

高知での最初の夜に、戦前の椿山に生まれ成人するまで過ごしたのサジ子さん(サンちゃん)の高知市内のお宅で歓待されたことは前々回書いたので話は飛ぶが、「民映研の映画をみんなで見る会」の人たちとバンに乗り合わせてサンちゃんの案内のもと、無事に椿山の集落に着いた。斜面の集落では家の前まで乗り付けることができないので、少し離れた所で下車したら、グズグズしているみんなを置いてサンちゃんはさっさと歩き始めた。振り返るでもなくどんどん行ってしまう。80幾つとは思えない軽い足取りで。。。ああ、ほんとに自分の故郷が好きなんだな。

サンちゃんの家は、椿山の他のどの家もそうだけど、丸石で築いた石垣の上に斜面にへばり付くように建っている。どの家も藁葺や茅葺きではなく瓦屋根だ。多分明治以前、戦前くらいまでは枌葺(そぎぶき=こけら葺)だったのだろうと思う。現在の法律では可燃性材で屋根を葺くことは原則禁じられているから、家の修復に合わせて順次変わってきたのだろう。

『山間 -高知の民俗写真2-』(田辺寿夫)より。昭和30年代の氏仏堂の屋根。古い枌葺(そぎぶき=こけら葺)。

それはともかく、椿山の家は猫の額のような土地に建てるべくサイズが小さく、殆どが軒の低い平屋で、中の建具も畳も全てが小ぢんまりしている。とても背の低いサンちゃんにはしっくりくるだろう。

屋内に入ると長年の囲炉裏のにおいが今も残る。仏壇も外され農機具などが土間に固められていてさすがに生活感は薄れていたが、それでもブラウン管のテレビや囲炉裏の上に置かれた石油ストーブ、古い掛け時計、本棚の椿山小学校卒業アルバムなどと一緒に農作業服姿のサンちゃんを見たら、何十年もタイムスリップしたかのように思えた。

サンちゃんのおじいさんが戦前に200円で建てたという、住居のすぐ下にある納屋も見せてもらった。耕作をしなくなって半世紀にもなるのに今もヒエだったかアワだったかの雑穀の種が保存されていた。もう、二度とこの土地で蒔かれることもないだろうに。

 


山の暮らし探訪(その2)

椿山は高知市街から北西へ車で2時間仁淀川水系を遡った源流部にある。四国最高峰の石鎚山(標高1974m)から直線で10kmの四国山地最奥部の急な斜面に在る僅か2,30戸の小さな集落だ。かつて椿山には数百人が暮らし、山の藪や雑木を燃やして拓いきその灰を肥料としてカブなどの野菜や雑穀を栽培する焼畑という古くから伝わる農法が1980年ごろまで行われていた。

民映研(民族文化映像研究所)の姫田忠義が椿山の生活を記録したのは1970年代中頃で、当時、既に日本の他の地域では焼畑がほとんど行われなくなっていた。椿山に焼き畑が残ったのは紙幣にも使われる丈夫な和紙の原材料であるミツマタを栽培して貴重な現金収入が確保されていたからだという。日本の焼き畑文化の末期に4年に渡り椿山に通って制作した民映研の記録映像『椿山 ~焼畑に生きる』を見ると、石混じりの痩せた土がザラザラと崩れ落ちる急峻な斜面での焼き畑がいかに大変なものだったかがよく理解できる。

Google Earthの画面より

京都の「民映研の映画をみんなで上映する会」が堺町画廊で行なってきた短編の上映会に2年続けて参加した。今年の最終回でメンバーの方から、椿山を訪ねるツアーをやるので参加しないかと誘われた。この秋に長編の『椿山』を上映する予定だが、その時に椿山出身者で焼畑の経験や山の生活を非常によく憶えているおばあさんを呼んで、映像の解説や料理の指導をしてもらうのだとか。その準備のために現在は高知市内在住のおばあさんに会い、案内してもらって現地を訪れてみようというものだった。

若い頃に京都の北山歩きが高じて山村の暮らしに憧れ、京都市北部の花背別所に引っ越したほどだったし、できて間もない万博公園の国立民族学博物館で、その映像アーカイヴであるビデオテークがまだVHSカセットテープだった頃(椿山のものだったかどうかは記憶していないが、奇しくも椿山の焼畑終焉と同時期)に、焼畑の記録映画を見ていたほどだったから、椿山に行けるのは願ってもないことだった。

ただ、ずっと気ままな一人旅をしてきた僕はグループ行動や他人の決めた既定の旅程をなぞるのが苦手。それに何より、現在たった1人だけになったとはいえ、住人の居る集落に単なる物見遊山、通りすがりの覗き見的な訪問はしたくない。本当なら二つ返事で何を置いても参加したかったところだがちょっと躊躇した。

でも案内してくれるのが、戦前生まれで電気のない時代の椿山を記憶していて、結婚して離れたとはいえ故郷を愛し、焼畑をはじめ椿山の生活について積極的に語り継ぎたいと思っている元住人であるなら、そして、民映研の映画を自ら上映するほど日本の民俗文化を真摯受け止めようとする人たちと一緒に行くのなら、こんな機会はめったにないので参加を決めた。