科学と技術

「科学」と「技術」はそれぞれに関連が深く、互いに補い合う領域ではあるけれど、同じものでは決してない。でも、それが判らない人が多すぎてウザい。

そのへんのミーハーちゃんたちの軽い会話だけでなく、テレビやネットなどあまり言葉を吟味せず、言いっぱなしで使い捨てていくメディアから、それなりに形として残りやすい紙媒体まで、これら2つの言葉を全く混同している。

科学とは岩波国語辞典によると
一定領域の対象を客観的な方法で系統的に研究する活動。また、その成果の内容。特に自然科学をさすことが多い。scienceの訳語。「科」は個個の部 門の意。 −ぎじゅつ【—技術】科学(主に自然科学)と、その理論の成果に基づく実際的な技術。 −てき【—的】〔ダナ〕科学の方法に合致して合理的・客 観的であること。「—に考える」

しかも、どうやら科学のほうが上等とみなされているらしく、本来は「技術」と言うべきところを「科学」に置き換えている方が多いように思う。

例えばロケット科学者。勿論、ロケットの開発、製造、運用に関する研究分野の中に科学は深く関わってはいるけれど、それらの実務を担っているのは殆どの場合、科学者ではなく技術者である。

20世紀初頭から前半にかけて、ロケットの基礎理論とその応用技術を包括的に研究し、ロケット工学の父と呼ばれるロシアのツィオルコフスキー、アメリカのゴダードらは技術にも科学にも造詣の深い科学者であり、ロケット科学者と呼ぶのに相応しい業績を残している。その次の世代、第二次大戦から冷戦時代に活躍することになるドイツのフォン・ブラウン、ロシアのコロリョフ、日本の糸川もその範疇に入るが、どちらかと言えば機体の設計、開発・生産システムの構築など技術者としての色のほうが濃いイメージがある。

さらに下って現代のロケットの地球や宇宙の観測という科学的な使用目的はともかく、ロケットそのものに目新しい科学的理論や知見が使われることはほどんどなく、どちらかと言えば枯れた既存技術の集大成でしかない。そこに「科学」の入る余地は見いだせず、したがって前述の「英雄」たちのように「ロケット科学者」と称せられる人など、余程のパラダイムシフトでもないかぎり、もう出てきそうにない。

にもかかわらずテレビが、三菱重工あたりのロケット開発に関わるぺーぺーの技術者に「ロケット科学者」の称号を与えれるのには呆れかえる。

原子力や核についても同じで、今の原子炉にしろ核兵器にしろ、その作動のための科学的な核物理学の基礎理論は20世紀前半に確立された言わば前世紀の産物で、その応用分野の原子力工学もやはり新たな地平を望むべくもない。まして、製造や運用に使われる技術には目新しいものなんぞ全くない。

この分野で科学者と呼べるのは核物理学者や原子力工学の中でも素粒子などの理論研究をしている学者達であって、技術開発をやっている人たちには当てはまらない。

だから、原発を製造する三菱や東芝や日立に科学者なんぞいるわけもないのだ。ましてや東電などユーザーに科学者がいるはずがない。それなのに、メディアは原子力の科学者が、核開発の科学者が、という表現を使う。なんとなく生々しい「技術」という言葉をさけ、もう少し抽象的かつ夢のありそうな「科学」にすり替えることで、華々しく未来を担う「科学者」とでも言いたいのだろうが、バカじゃないか?メディアの台本書いてる奴も本書いてるやつも、それで食ってる以上、言葉のプロじゃないのか?恥を知れよ!


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