ニュースを観るつもりでテレビをつけたまま迂闊にも居眠り。夜中にふと気がつくと映っていたのは、山の斜面にへばり付くような山里に暮らすおばあさんだった。ほんの2日前、高知の最奥部にある椿山で出会ったシゲ子さんと、そこへ案内してくれた椿山出身のサジ子さんの姿に重なる。寝起きのボーっとした頭のなかで記憶とテレビの映像がグチャグチャに入り混じって夢なのか何なのか区別がつかないまま、山道を一人歩くおばあさんの後ろ姿を目で追った。。。
ソファーに寝転んだまま寝ぼけ眼で画面を眺めているうちにだんだんと我に返って、やっと頭の整理がついてきた、、、と思ったら番組は終わってしまった。『秩父山中 花のあとさき ~ムツばあさんのいない春~』という番組だった。寂れゆく山里で、夫に先立たれ、村人が減っても一人で気丈に生きたムツさんの晩年の暮らしぶりを番組はムツさんが亡くなるまで十数年に渡って記録していた。
今回、縁あって京都の「民映研の映画をみんなで上映する会」の人たちに誘われ、秋に予定されている民映研の『椿山 ~焼畑に生きる』上映の下準備の旅に同行させてもらうことができた。高知市街から車で2時間、高知の清流仁淀川を遡り、支々流のひとつ大野椿山川の源流域の急斜面ある戸数2、30ほどの集落椿山が、限界集落どころか人口わずか1人となって、今まさに朽ちゆこうとしている。夢うつつで視た秩父の山間集落はムツばあさんが亡くなったあと人口が減り続け今は無人なったという。椿山もやがては同じ道をたどるのだろう。。。
高知に着いて先ず訪ねたのは現在80幾つかになるサジ子さん(=サンちゃん)。椿山に生まれ、成人して高知市へ嫁ぐまで、電気もガスも無かったこの山深い集落で暮らし、焼き畑でアワやソバ、キビ(トウモロコシ)、和紙の原材料ミツマタを栽培していた方だ。サンちゃんは今も毎朝、近隣の山を歩くのが日課で足腰がしっかりしている。椿山の焼き畑は集落とは谷を挟んだ反対側の急峻な斜面で行われていたので、若い頃そこで培われた基礎体力の持ち主のサンちゃんにとっては近郊低山の散歩など「なんちゃぁない」文字通り朝飯前なのだろう。
椿山には水田がなく、焼き畑で採れるヒエやアワなど雑穀が主食で、季節の山菜と「コヤシ」と呼ばれる各戸の傍の小さな自家用畑で栽培した芋やキビが1年365日の食になったそうだ。しかし質素で限られた食材しかない山里でもいろんな工夫をして、きっと精神的には豊かな食生活を送っていただろうということは、椿山を訪れる前夜に高知市のサンちゃん宅でごちそうになった「ヨジメの実」(ガマズミ)で漬けた土生姜や「カラタチの葉」(サルトリイバラ)に包まれたヨモギ餅などの味付けの洗練にうかがい知ることができる。
他にも色々とごちそうになったがみなシンプルだけど上品な味付けで美味しい。伝統的な食材の調理法を憶えているだけでなく、成人後に街に出て初めて出会ったであろう食品や材料を使いこなす工夫を80を過ぎた今も続けているのは、椿山の人共通の食文化の伝統に由来するものなのか、それともサンちゃん個人の資質に依るものなのかは判らない。
サンちゃん宅の夕餉で、海辺の須崎市から駆けつけてくれた「高知・民族文化映像研究所の映画を見る会」の八金姉御が持参し料理してくれた新鮮な鰹(刺し身、生節、それに当然タタキ)の切り身の豪快な巨大さに圧倒され、サンちゃんの山の香りがする手料理を堪能し、高知の夜は更けていった。。。
頭脳明晰で若い頃の生活の様子を事細かに飾ることなく話してくれるサンちゃんは、椿山の生活を今も愛している。故郷に誇りをもっていて常に積極的に話をするので記憶が薄れることなく更新され続けているのだろう。飾ることがないから知らないことは「知らん」と言うし、戦前の椿山の焼き畑文化を正確に語れる貴重なインフォーマントだ。
夕食後一緒に民映研の『椿山』のDVDを観ながら、撮影された当時(1970年代)の集落の人々を紹介し、生活の様子を直々に解説してもらえた。秋の京都での上映会本番にはサンちゃんが招かれて解説や料理教室も企画されているというが、それに先立って高知の海と山の料理と、翌日訪れる椿山の生の情報が付いた記録映像を堪能できた。