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頚椎前方固定術で入院 その2(手術から退院)

昨年12月に急激に悪化した手の痺れ等の原因を取り除くために、2月14日から入院したことは前回書いた。

明けて15日、朝食抜きで午前中に点滴が始まった。さらに午後一番に手術開始のため昼食も当然なし。腹を空かせて戦に臨むかなりトホホな心境。

1時からの予定が30分押しになる。早くやってよ〜。手術が待ち遠しい訳じゃない。できることなら回避したいが、長く放置すればするほど脊髄や神経根にダメージが残る。治るものも治らなくなる。腹減ったなあ、、、とか思ってるうちにストレッチャーがお迎えに来た。

手術室に入る前に、この世の見納めになるかもしれない景色を眺めておこうとキョロキョロしていたら看護師さんから、ここは舞台裏の楽屋だから物置きみたいに散らかってるんで見ちゃダメよ、とジョークが飛ぶ。舞踏やってる友人の手伝いで名古屋大須の小劇場の楽屋で寝泊まりしたとか、京都の伝説的ストリップ劇場DX東寺の踊り子さんの楽屋を訪ねたことがあるけど、こちらは全然整然としてますな、とかなんとか、しょーもない返しかできない。余裕ないな。

位置について、オペの機械やランプを見上げていたら、麻酔医の方が自己紹介してくれた。間をおかず、では麻酔を入れますからね〜、、、で暗転。

目が醒めたのは翌日の朝。コロナ禍の折、ここのようなあまり大きくない病院は術後の患者ケアにマンパワーや設備リソースを割けないので、通常のように直ぐに麻酔から覚醒させ、酸素と痰のチューブを抜いて特別な回復室に入れるということはしないからね、と主治医から言われていたので特段驚きはない。それでも、個室ではないにしても、ナースステーションの直ぐ前の部屋で、目を開けたら直ぐに看護師がきてくれた。

首の左前を数センチ切ってるのだが痛みは全くない。全く触覚がなかった指先がなんかチリチリするんで、指同士擦り合わせてみたら、100%ではないにしても触っている感触が戻っていた。おおっ!手術成功じゃん!

首の装具は、アメリカ製のVistaという。装着が楽で、つけ心地も良い。顎のせの高さはダイヤル調整式。非常によく考えられ、作られている。十年前の手術で使ったものを押入れの奥から引っ張り出して使ってる。パッドはさすがいにウレタンが加水分解してたんで交換した。

執刀医の池永稔医師は15年前の腰椎脊柱管狭窄の内視鏡下手術と10年前の(今回と同じ)頚椎前方固定術の2回、切ってもらってるので何の不安もない。むしろ、頚椎と脊髄の故障から下手すれば全身麻痺にもなりかねない不安から解放されたのに、感動が足りなくね?と自分で突っ込んでるほど、池永さんには信頼を寄せている。

ともあれ手術は終わり、無事目が覚めて、そうこうするうちに昼になったら、何と飯が出てきた。いわゆる普通の病人食でめっちゃ美味そうとは思わないが、腹は減っているんで、唾液が出る。ところが、自分の唾ですらゴックンできない。これではお粥も無理じゃない。

嚥下ができない理由は、数時間の手術中に頚椎を前方から露出させるために首の中央にある気管と食堂をドッコイショと横に押し退けていたことで一時的に喉周辺の器官に麻痺が起きてること、さらにそこに炎症も加わり、呑み込むという行為をコントロールできなくなったためだ。

体を起こした状態では液体はことごとく気管に流れ込み、激しくむせかえる。飲食どころではない。完全に仰向けに寝て重力で喉の奥にある咽喉に落とし込めばむせることはない。それでも、水もお粥も食道にはいろうとしない。めっちゃ痛いが、無理に咀嚼、嚥下を行おうとするとせっかく咽喉まで行ったのに咽喉盖が閉じてないので気管へ逆流して、また激しく咳き込む。そこで、農道的な嚥下を諦めて、咽喉に溜まった食物を次に新たに送り込む食物で押し下げるという「芸当」を発明した。

まず、仰向けでお粥を喉に流し込む。お粥は気管に入らず、かといって半詰まりの食堂にも行かず、咽喉に溜まる。

そのまま、次のお粥をスプーンで流し込むと、当然、咽喉から溢れて気管に入りそうになる。

その瞬間を感知したら、口を閉じたまま肺から空気を鼻に抜くように吐くと、咽喉蓋辺りのお粥は押し出されて喉と鼻の境目の軟口蓋(ノドチンコのあるあたり)まで移動する。強すぎると「鼻から牛乳〜♪」みたいにみっともないことになるし、鼻も痛くなる。

そうこしていると、咽喉に溜まっていたお粥は食道のわずかな隙間から少しずつ胃のほうへ移動を始める。軟口蓋のあるあたりの背中側の壁にへばり付いていた二口目のお粥も少しずつ咽喉へと流れる。

という、誤嚥性肺炎と鼻から牛乳の狭間でのせめぎ合いをやること2時間。術後最初の食事に出されたものを食べ切った。(正確には、パサパサした魚の切り身はこの芸当が効かなかったので残したが、、、)

この嚥下障害は単に腫れているだけだから、日にち薬で、今日で術後1週間目だが、すでにほとんど正常な嚥下ができるまでになってきた。まだ大きな塊は呑み込むのに苦労するが、しっかり咀嚼しておけば問題ない。3日ほど前から、自販機でキリンレモン強炭酸無糖を買って飲んでみたが、炭酸ガスでえらいこっちゃ、になるかと思いきや、よく冷えた飲み物は腫れた喉に気持ちよく、炭酸の刺激も咽喉蓋をひき締めるのか、普通のお茶より上手く飲める。翌日、売けれていて残念。みんなこれが良いのを知ってるのかな。それとも消毒アルコールと混ぜて闇酎ハイ作ってるのか?(笑)

以前の首切り手術では、C5麻痺という腕が動かなくなる合併症が出たため、抜糸までの2週間は病院に留め置かれた。今回も、一応2週間を退院の目処に、傷や炎症、感染などの状態次第ではもっと、と言われていた。

手術直後は病棟備え付けの病衣を着さされたが、あとは自前のシャツとジャージのパンツで過ごしてる。みんな、なんでパジャマなんだろう?

ところが、執刀が上手なのか、僕の体が異常なのか、傷は全く痛まない。前回も首の傷は痛まなかった。それより自分の腸骨(骨盤)から取った骨のブロックを植え込んだがその傷の方が痛かった。この十年の医学の進歩で人工骨が使えるようになって余分の切開もしてないし、ほんとに切ったの?と思うほど。喉の痛みの方が辛い。

その喉の痛みも、嚥下障害も、日を追って改善してきた時に、担当看護師から退院の希望日を聞かれた。まだ術後5日めなんですけど、、、。それに、執刀医と同じく外科医である病院の理事長も毎日来るけど退院の話はしていないから、想定外だった。

それが、昨日(術後6日目)に理事長が来てくれて、今夜は池永さんが来る日だから、外来診察後に診てもらい、OKが出たら明日退院ですね、と。池永さんは、寒邪を丁寧に診るし、説明もしっかりしてくれる上に、質問したらしただけ、また詳細ね答えてくれるんで、とてもありがたく、それだからこそ15年前に6軒の病院を回って会った医者から彼を選んだんだけど、、、贅沢な問題だけど、診察に時間をかけるから、予約時間から2時間くらい待たされることもある。

今回の入院の見回りで池永さんが1回目に来てくれたのは夜中の12時だったらしい。隣のベッドの患者さんはしっかり起きていて、話をしたらしいが、僕はうっかり眠りこけていたから、起こさずにおいてくれたらしい。いやいや、話を聞きたかった。そんで理事長にもし寝ていても、起こしてほしい旨頼んでおいた。

さて、9時の消灯時間が来て、あと3時間くらいはYoutubeでも観ながら待とうか、とベッド上でゴソゴソしていたら、な、な、なんと9時半に池永さんがやってきた。「痺れ、痛み、ありませんか?今日撮ったレントゲン、問題ないです。じゃ明日退院ということで、、、。首の装具、しっかり着けておいてくださいね。」以上。あっけなく退院決定。

本当は根掘り葉掘り、病気のこと聞きたかった。しかし、他の患者も待っているだろうし、何より、こんなに早く診療が終わるのは珍しいから、いつ寝てるのか休んでるのかわからない、激務の医者にはこういうひは是非とも早く帰って休んで欲しいと思った。

てな訳で、朝が来たらいよいよ退院。またKungusledenで使ったバックパックに一切合切詰め込んで帰途につく。1週間と1日のショートバケーションを終えることになる。


頚椎前方固定術で入院

脊髄に圧迫が出て頚椎の前方固定術を受ける。執刀は池永稔医師。過去2回世話になってる脊椎外科手術の達人。

昨日、空き家の西陣茶店までCiaoで行って、そこからバスで天神さん前の病院に。

デカいバックパック担いでどこ行くんじゃ?って感じ。

1時の手術が30分延びて、この投稿。


新型コロナ治療用抗ウイルス薬の名前はめんどくさい。

新型コロナ治療用抗ウイルス薬では点滴治療薬レムデシビル(商品名ベクルリー)と経口治療薬モルヌピラビル(商品名ラゲブリオ)に次ぎ3番目となるニルマトレルビル/リトナビル2剤のパッケージ(商品名パキロビッドバッグ、海外ではパクスロビド)が登場。

薬局に行ってOTCで買うわけじゃないから、名前の憶えにくさは、僕のような一般人にはどうでもええんやけど、いちいち正式名と商品名が違うところへ、ご丁寧に日本独自の商品名もある、というのは何じゃ?と思う。だいたい、一般人に馴染みのないこのような専門薬に商品名が必要なんかなあ。。。しかも、和洋どっちの名称もどのみち意味のわかりにくいカタカナなんだから、正式名で良いんじゃね?(笑)
どうでもええけど、しらんけど、、、


珍しい業態のパーキング、、、

用事があって珍しく祇園界隈に出かけた。クルマだったんで安い駐車場を探したけど、場所が場所なんで少々裏道に入ってもそんなに安いはずもない。

うろうろして無駄に時間を使っていたら用事ができない。安いかどうかは諦めて適当に行き当たったところにとめようか、、、と思い始めたら、耳にハンズフリーのイヤホンマイクを着けたマウンテンバイクの若者が声をかけてきた。一瞬、真っ昼間に変な客引きか?と思って身構えたが、礼儀正しくちゃんと帽子をとって近づいてきたので、窓を開けて話を聞くと一見感じの良いお兄ちゃん。「駐車場をお探しですか?直ぐ近くに安いとこがあるんで、ご案内しますよ。今、ちょうど1台分だけ空いてますから。」と来た。変な店じゃないけど、やっぱ客引きじゃん、駐車場の。

「今、ちょうど1台分」って都合良すぎね?うっかり優しいお兄ちゃんの話に乗せられたら、後から別の怖いお兄さんが出てきておっそろしい金額ふんだくられるかも、とか妄想が頭に。。。でも「安い」というキーワードのマジックにかかってしまい、抗う言葉も出ずにフラフラとついて行った。

先導のマウンテンバイクを見失わないように追いかけるのに必死でNaviを見る余裕もないまま、裏道をぐるぐる回っているうちに一瞬方向感覚を失ってしまった。鴨川に行き当たってないし、四条より上(かみ)に居ることは判っていても、自分が東西南北どっちを向いてるかもよく把握できないと不安がつのり、そのせいか途中で「安い」マジックも解けてしまい、もしもヤバそうだったら逃げようとさえ考え始めていたほど。

お兄ちゃんがマウンテンバイクを降りた最後の曲がり角には「安い!←P」という手描きのプラカードを掲げたおじさんが立っていた。曲がって直ぐに駐車場に到着すると、待っていたのは強面のお兄さん、、、ではなく、案内してくれたお兄ちゃんと、また「P→」プラカード持った中高年の女性、そこへ直ぐ手前の角で案内プラカード掲げていたおじさんも駆けつけて、都合3名の人が笑顔で出迎えてくれた(笑顔と「安い」プラカードでマジック復活!)。

みんな愛想良く、言葉使いも丁寧。京都郊外の観光地でよく目にする(祇園だって観光地だけど、、、)、駐車場の前でカニのシオマネキのハサミよろしく、延々と手招きしている無表情なおっちゃん、おばちゃんたちや、大手ハンバーガーチェーンでひたすらマニュアルに忠実に「無料の笑顔」を振りまいているロボットみたいなお姉さんたちとは全然ちがかった。

彼らの身なりや立ち居振る舞いにタカビーな祇園とかそんな感じはどこにもなく、その辺の普通の家族のようにも見える。ともかく、気さくに話かけてきて、FIAT 500を珍しがってくれて、まるでウチの近所の人たちと会話してるような錯覚が起きる。よしんばそれが客に安心感を与えるための「営業テク」だったとしてもそれはそれで凄いことだ。けど、とてもそんな雰囲気でもない、、、。(お兄ちゃん、疑ってゴメンチャイ)

ただ一つだけ、僅かだけど微妙な違和感があった。その駐車場はコインパーキングだったのだ。コインパってマンパワーを使わないために自動設備を設置しているはず。それも、たった6台分しかない小さな駐車場で都合3人の大のオトナが案内・接客で働いている、ってどうよ?

クルマのこと、料金のこと、ひとしきり話をし、僕の用事の行き先の方向を教えてもらい、さて歩き出そうとしたら「いってらっしゃい!」と送り出してくれた。もちろんこれには気持ち良さこそあれ、違和感などないのだが、日本中探してこんなコインパーキングってある?という不思議な感覚ではあった。

思い出すのが、コインパではないが、何かを履き違えたコンビニのATM、はっきり言ってしまえば京都市内のファミマのやつを利用すると、システムのハキハキした説明ボイスとは別に、京都弁の若い女性の声で挨拶や礼を言う。そんで、それが異様に暗くてゾッとするんだけど、あまりに度が過ぎて逆に笑っちゃうほど!(数年前にFacebookに上げた動画はこちら、FB見れない人はこちら。あと、黙って釣り銭を投げつけるように吐き出す京都市営地下鉄の券売機。よく「お役所仕事」というが、最近の市庁舎や区役所での「人間」の職員の対応は目を見はるほど改善されているのに、あの不遜な機械の客対応の質はバカ高い地下鉄運賃に全く比例していない。それと比べたら死にかけているような声でも一応は礼を言うファミマのATMの方が百万倍マシだ。どうでもええけど、、、(笑)

そうそう料金といえば、祇園界隈なら近くにある市営駐車場は30分で200円(ただし、土日祝は混んでいてとめられない)だから、件のコインパ料金「30分で300円」というのはムチャクチャに安いというわけでもないが、お兄ちゃんに声をかけらる前に見た表通りのコインパは20分300円だったし、ここに来る途中にあったところは50メートルも離れてないのに後で調べたら15分220円だからそれらよりは安い。

面白いのは「2時間以内最大900円」という不思議な料金設定。昼間の時間帯に普通に2時間とめたら1200円のところ300円安くなる。でもそれを越えたらまた30分ごとに課金される(と看板には書いてある)。つまり、1時間半を過ぎて2時間までの利用なら1時間半の料金900円のままですよ、ということらしい。びったし2時間とめたら30分当り225円となり、安い市営駐車場の料金に近づくんだけど、「一番得する時間帯」がたったの30分間とは微妙、、、。何でこんな料金設定なのかよく解んないけど、まあ今回の用事はちょどそのくらいだったので問題なし。

用事を終えて戻ってくると「おかえりなさい」と出迎えてくれた。で、またFIAT 500をネタに会話が弾む。料金を払おうとすると、パーキングロット番号を見るまでもなく「1番ですよ」と教えてくれて、精算機に千円札を入れかけたら、女性が横に来て「光が点滅しているほうは駐車チケット用なんで、こっちに差し込んでくださいね」と親切に説明してくれる。なるほど、これは間違いやすいだろう。ミスリーディングな精算機は置いとくとして、それを人が補う丁寧さに驚く。そしてまたおじさんとチンクについてのクルマ話をひとしきりして謎のコインパーキングを後にした、、、「また来てくださいね」の言葉と3人の笑顔に送られて、、、。

小規模なコインパって大抵はチェーンの個人フランチャイズなんだけど、彼らはあの土地オーナーの一家なのかなあ。。。狭くて見つけにくい一方通行の裏通という不利なロケーションでは以前からああやって一本釣りで客を引っ張ってきて接客をしなきゃやってけないのかなあ。。。それともコロナの打撃を受けて祇園に来る客が減ってしまい、受け身で何もしない機械だけにまかせてはおけんと、この業態を発案してやり始めたのだろうか。。。

さっき、ここは特段安いというわけでもない、と書いたが、駐車場までの誘導、笑顔の出迎えと送り出し、入出庫の安全確認、料金説明、世間話、土地案内・・・コインパーキングという機械システムには絶対期待できないサービス込みだと考えたら、やっぱ安いのかもしれないな。逆に、1回2時間900円の顧客にこれだけの手間を注ぎ込んで、彼ら大人3人の生活をちゃんと維持できるほどの商売として成り立ってるんだろうか、と心配になるくらいだ。

10年に1回あるかないかの祇園での駐車だけど、もしも次回があればまた同じ所にとめるかもしれないな。そのとき彼らはまだそこにいるだろうか?


馬皮張りの馬頭琴

前置き:ダラダラ長い能書きを読まず、どんな形か?どんな音か?さっさと出せ!という人はこちらで動画に飛んで。(またはYoutubeで観るとか、、、)
あと、この稿では鞣(なめし)を施していない「皮」を使う。(一方「革」は加工されたものを指す)


​モンゴルの馬頭琴が、まるでバイオリンかチェロのようなf孔のついた板張り胴の今の形態になったのは、モンゴルが社会主義体制になった後、ソビエトロシアから西洋音楽の影響を受け始めたほんの数十年前のことで、それまでは三味線のような皮張りだった。国境線で隔てられているが同じ民族の中国の内モンゴルでも皮張りから板張りへの移行があり、しかもこちらでは機械式ペグの採用にまで進んでいる。

皮張り馬頭琴 (from “Mongol Zurag” State Publishing House, Ulan-Bator, 1986)

ちなみに、現在は中国や日本で「馬頭琴」と呼ばれているが、以前は馬頭が付いてないものも多くあったようだ。『スーホの白い馬』でも馬の頭が付いているという記述はなかったと思う(挿絵では馬頭が付いているが)。だいたいモンゴル語ではMorin Khuur(モリンホール=馬の楽器)と言い「馬頭」という言葉は出てこない。しかし馬頭琴が国や民族の文化を代表する楽器となった現在、モンゴル本国や内モンゴルで製作される馬頭琴に馬頭が無いものは無いだろう。。。構造でも形態でも馬頭琴は現在進行形の楽器なのだ。

ちなみにのちなみに、昔、モンゴルの擦弦楽器のうち馬頭が付いたものは「モリン・トルゴイトイ・ホール(=馬の・頭の付いた・楽器)」あるいはそのバリエーションで呼ばれることもあったようで、トゥバ音楽演奏・研究者の等々力政彦さんによると、それを「馬頭琴」と訳したのはおそらく明治の女性研究者、鳥居きみ子の可能性があるとのこと(真宗総合研究所研究紀要 第31号 III 「内モンゴル敖漢旗喇嘛溝の遼墓壁画に認められる、台形胴の長頸リュートについて」、p. 9。鳥居は「ムリントロガイヌホーレ」と記述したようだが意味はほぼ同じ)。等々力さんのこの記事は馬頭琴やその仲間、祖先である皮張り楽器、それらの変遷などについて興味深い話に満ちている。(大谷大学学術リポジトリでPDF化された論文を読むことができる⇒等々力さんの論文はこちら。*)

*等々力さんから連絡をいただいたので確認が取れ、参考にした紀要の記述は部分的に修正したいとのこと。ここで扱うこととは直接関わりは無いが、その要旨は「(台形胴の楽器は)…アジア中央部地域『のみ』で認められる」としたのだが、別由来の同様の形態の楽器は北アフリカも独自の歴史があることが判ったということだった。

閑話休題。大塚勇三/赤羽末吉の絵本や小学校の教科書に載せられた馬頭琴の起源譚『スーホの白い馬』にも殺された愛馬の皮を使って楽器を作ったとある。ただ、実際には「馬皮張り」の馬頭琴というものはモンゴルでも作られていないようで、「モンゴル人が『馬では良い音が出ない』とを言っていた」という又聞き情報くらいしか馬皮を使わない理由を僕は知らない(「しゃがあ」主宰者でモンゴルやカザフなどアジア内陸部の民族や文化に詳しい西村幹也さんだったような気もするが、、、情報ソースをはっきり憶えてない*)。今どきリバイバルで皮張り馬頭琴の渋い音を好む演奏家が出てきているようだが馬皮の楽器を使っているというのを聞いたことがないし、日本ではその第一人者である岡林さんの楽器も山羊皮である。アフリカの太鼓ジャンベなども山羊の皮だから、きっと馬頭琴には薄くて丈夫で響きも良い山羊皮が使われるのだろう。(あるいは馬への愛着が深いモンゴル人にとって馬の皮を剥いで楽器に張るということに抵抗があるのかも、とも考えたが、しかしそれではスーホの白い馬やそのバリエーションの起源譚がモンゴル各地に存在することと矛盾する。おそらく純粋に音色の好みの問題なのではないか。

*西村さんに確認したところ僕の記憶どおりで、さらに、「馬の皮は柔らかくて張りを一定にできない」=音が変わりやすくて、いい音にならない、という追加情報もいただいた。

しかし、馬皮とて和太鼓に使われるものは牛皮のそれより薄く、和太鼓を作っている太鼓屋さんに聞いたところでは締め太鼓などに使われて、微妙な振動で良い音が出るとのこと。この皮なら馬頭琴にも使えるのではないか、と思った。

実は以前に東北を旅しながら作った「オシラサマ馬頭琴」に、すでにスーホのお話に倣って馬皮を使っている。ただ、あのときの皮は、屠殺後に剥がれて塩漬けにされた生々しい毛付きの皮だった。部位も判らない分厚い皮から毛を剃り取って胴枠に張ったのだが、乾燥してもかなりの厚みがあった。そのため、繊細できらびやかな音どころか、胴の小ささも相まって音量も出ないし、ひたすら渋いくぐもった音色のものになった。それはそれで東北地方の風土を反映したような鄙びた「味」があって良かったのだが、元々朗々と唄うオルティンドーの伴奏楽器であった馬頭琴としては、勇壮な音楽を好むモンゴル人の言う「良い音が出ない」がそのまま当てはまるとも言える。

昨年、知り合いの音楽家Yさんから「壊れた馬頭琴を改造して皮張りにしてくれないか?」と頼まれた。僕も経験があるのだけれど、小学校でスーホ絡みの演奏をすると子どもたちから「お話では馬の皮やスジを使ったって言うのに、どこに使われていますか?」という質問が出るので、皮張りのものが欲しいとのことだった。他の演奏者はどう答えているか知らないが、僕は皮から膠(ニカワ←煮皮)という接着剤ができるので、板張りになった今でも動物の皮やスジは膠の原料として使われている、と答えるようにしていた。ただし、これはちょっとマヤカシで、馬頭琴に使われたニカワが馬皮からできているという確証など全く無いのだから。

さてその依頼を受けた馬頭琴だが、共鳴胴がひどく傷んでいて、表板の割れだけでなく側板も接着が外れて、そのうえ魂柱が失われたまま弦を長く張りっぱなしにしてあったのか表板が陥没したように変形していた。これではまともに音も出ない、哀れな姿だった。

依頼者は気軽に「皮を張れば再生できる」と考えられたのだろう。しかし、音が出る基本原理が全く違う板張りと皮張りでは、胴の材質や構造に互換性がないのだ。簡単なことではないし、形はできたとしてもどんな音質になるかも判らない。と、断りをかけたのだが、熱心に説得されてしまった。受け取った馬頭琴は痛みも酷いが、割れ目に木工用ボンドを流し込むというやっつけ修理が施され、しかも、元々が膠でなくボンドで組み上げられている安物だった。手をかけて修理する価値があるかは疑問だが、かと言って元の形や構造をすっかり換えてしまう改造を製作者じゃない僕がやるのも実はあまり気が進まない。また、その頃から頸椎の異変による手の痺れが起き始めていたので、それも受注を躊躇させる一因でもあった。(それでも、壊れた楽器を少なくとも音が出るように再生してやるのも悪くないかと考えたのは、自分の身体が壊れかけていることも理由の一つだ。同じ理由で愛車FIAT 500のワイヤリング・ハーネス全交換修理をやったのだったし。)

でも、受けた以上は身体が動かなくなる前に仕上げてしまおうと、昨年末には完成させた。詳しい製作過程の説明は避けるが、一連の写真を掲示しておく。

下準備の修理

共鳴胴の改造

皮張り

完成

文様

発注者から「つっかい棒が透けてるのは痛々しい」、「皮に色を塗ってはどうか」という意見が来た。ちゃんとした細工がしてあるので恥ずかしようなものでもないと思うし、まして痛々しいとはつゆぞ感じてなかったので少々ショックだった。壊れていたとはいえ別の人が製作した楽器を赤の他人が勝手に改変してしまうほうがもっと痛々しい行為だとは思うけど、、、それにナチュラルで透けている馬皮に着色してアラかくしをすること自体、せっかく馬皮を使ってスーホの白い馬の話に寄り添った馬頭琴にする、という本来の目的から逸脱するので断固ことわった。うるさいやつだと思われてるかも知れないが、これは譲れない。仮にこれが山羊皮だったら平気で僕が色を塗ってたかも、、、。日本でも、モンゴルでも、世界中さがしてもあまり例のない、しかしスーホの白い馬で疑問をもった子どもたちに見て欲しい馬皮馬頭琴を作ったんだから、無理を言わせてもらった。

ただ、皮を張りっぱなしで少々殺風景なのは否めない。そこで出荷まえに思いついて伝統的な文様を描き込もうと思ったのだが、どうにも手が動かない。仕方なく手抜きの方法を選んだ。耐水性があり地色が透明な転写プリント用紙にレーザープリンターで印刷してシールを作り、プラモデルのデカールのように表板に貼り付けた。(納品後に依頼者から手描きと勘違いされたコメントをもらったくらいだから、そんなに悪くない出来だと思う。文様については喜んでいただけたので、色塗り云々の件を補ってあまりある結果が得られた、と僕自身もほっとしている。)

音色

馬の皮が良い音かどうか、はモンゴル人の趣味次第だが、僕は気に入っている。オシラサマ馬頭琴の渋さは無く、もちろん板張りとは違う音だし、他の山羊皮馬頭琴とも似ていない。これは「馬皮馬頭琴」というジャンルになっちゃってるのかも。オシラサマ馬頭琴も、あれはあれでワンノブアカインドという感じだけど、あの存在意義を理解して弾きこなせるのは嵯峨治彦さんしかいない*。今回の馬皮張り馬頭琴も音色だけでなく発音の性質には少々癖があり、弾き手を選ぶかもしれない。頼んでくれた和歌山のYさんは、馬頭琴以外にも多くの楽器を弾きこなす人だから、きっとちょうど良い塩梅の設定やチューニングを見つけてこのケッタイな楽器と仲良くなってくれるだろう。そして、馬皮馬頭琴の演奏を聴く子どもたちに、その音の源の馬皮を通して伝わるものがあると良いなと思う次第。

*そう言い切れるのは、彼との出会いが僕の馬頭琴作りの嚆矢であり、その後もいくつかのゲテモノ的私製馬頭琴の試奏・試用(モニター)をやってもらったことと、もう一つ、「オシラサマ馬頭琴」は単なる楽器の固有名ではなく、僕の作品製作スタイル(あるいはスタンス)の根源に関わる自問に対し、答えを見出すために実行した「一人プロジェクト」に彼の演奏が欠かせなかったということも重要な理由である。(つまり「物」としての作品ではなく、最少限の手道具を携えて山野を彷徨しつつ土地々々の材料を得て物作りをする)という「アクション」の総体が「オシラサマ馬頭琴」という作品であった。その総仕上げとして、完成したオシラサマ馬頭琴を僕の馬頭琴原点たる嵯峨治彦という演奏家に弾いてもらうことでそのプロジェクトが完結したのである。嵯峨さんを巻き込もうと目論んだ時点で既に「一人プロジェクト」ではなかったが、さらに、旅の行く先々で出会った人たちからいただいた情報や材料や物心のサポートがなければ作品「オシラサマ馬頭琴」は成立しなかったから「一人プロジェクト」の看板は降ろさないといけないだろう。。。)


追記:忘れていたわけではないが、馬皮の入手について本文中に書く機会を逸していたので、改めてここに記す。

皮張りにしてと依頼されて、すぐに馬皮の使用を思いついた。すでに書いたようにオシラサマ馬頭琴で馬皮は使っているのだが、あれは完全に僕自身の実験的作品であり、どんなに気難し楽器になっても嵯峨さんなら弾きこなしてくれるだろう、という甘い考えがあった。しかし、自分から馬皮の使用をオファーしたとはいえ、依頼者に気に入ってもらえるようなものを作るには、分厚い生皮を使うといったリスキーな選択は避けたかった。以前、佛教大学の知り合いから頼まれた仕事でアジアの打楽器(特に太鼓)についての冊子を作ったとき僕なりに調べたことがあり、その冊子では和太鼓関係は出てこなかったけど、馬皮も太鼓に使われることを何となく知っていた。そこで今一度馬皮の太鼓について調べてみたら、和太鼓の締め太鼓に使われる馬皮は、山羊ほど薄くは無いが牛革よりは馬頭琴に向いているのでは、という感触を得た。

京都に老舗の太鼓屋さんがあるというネット情報で、その場所を探したら、なんとお隣の奥さんの実家の隣となっていた(じつはそこは店ではなく太鼓屋さんのオーナーの家だったんだが、、、それはともかく)。奥さんのお父さんが気さくな方で、しかもいろいろな方面で僕と繋がりがある人だと判明。その伝手でお隣の太鼓屋さんの社長さんに紹介いただけた。早速店舗にうかがって事情を説明したところ、子どもたちに聴かせる楽器を作るのなら、と無償で馬皮を提供していただくことができた。ついでに馬皮の性質や水に浸す時間や扱い方なども詳しく教えてもらえたので、これは本当にラッキーだった。芋づる式に材料と情報の提供者が現れて、まるで何かの力に「導かれるように」作らされたオシラサマ馬頭琴の旅のことを思い起こさせる。

紹介が最後の最後になってしまったが、お世話になった太鼓屋さんとは、京都の『三浦太幸堂』で、寛政年間創業という二百数十年続く老舗のメーカー。所在地は僕が通った堀川高校のすぐ北側(全く知らなかったけど)。醒ヶ井通という裏路地みたいな狭い道にある。訪ねたら町家が多い街並みには高校生だった頃の懐かしい昔の面影が残っていたが、進学校になってしまった高校は外観も異次元の変貌ぶりで、その妙な色の建物はちょっとキモい。三浦太幸堂さんは改装されてたのか新築なのかわからないが町家の風情を残した建物だった。完成後にも再度お邪魔して馬皮の張り具合をお見せしたら、上手く張れていると褒めていただいた。