自己矛盾にワロタ(脱力)

身を削ってまで人助けの仕事やろうって人がいて、目も当てられないので手をさしのべた俺の身体は風邪でボロボロ。先日来、いろんな人に心配かけている。

ふと我に返ったら矛盾する自分の言動の虚しさにどっと気が抜けた。エピメニデスのパラドックスの変形か?そりゃ、相手に通じんわな(笑)。要らぬおせっかいはやかず、まずは自分の身体を労ることにしよ。


しゃあしゃあと。。。

お騒がせのガキが、嘉田陣営から自民に寝返った履歴の汚さや、SEALDsに対する誹謗中傷という口の汚さだけでなく、今度は金にも汚いことが公になった。

自民党を離党する理由が「プライベートな問題で党に迷惑をかけているのが心苦しい」だって?

報道されているように未公開株が「国会議員枠で買える」と持ち掛けて金を集めたのなら「プライベート」じゃねえだろが。議員の肩書使った詐欺じゃん。つか、未公開株先取りしてうちわだけ儲かるってのは、彼が非難する「極端な利己主義」じゃね?

仮に未公開株の話が事実だったとしても、そんなインサイダー取引の片棒担ぎみたいなことが国会議員に許されるわけないから、完全に犯罪なのにそれがバレた今、「党に迷惑」なんてものじゃない、国民にかけた迷惑はどうなる?辞任するだけじゃ足りない。歳費返上しろよ。(彼に投票した滋賀の人たち、ちょっと恥ずかしいだろな)

それなのに、先のSEALDsへの口撃で自民党内部からも叱責の声が上がっていたが自らのブログで開き直ったまま、その後訂正も更新もしていない。まして、今回の金の問題についてはだんまり決め込んでる。

事実じゃないことをしゃあしゃあと言えて、間違いや嘘を指摘されてもカエルのツラに小便のごとく、つらっとしてられるのは安倍と同類の輩だな。厚顔無恥のバカさ加減は元親玉の麻生の薫陶か?

次は維新あたりに行くか?同類の橋下にでも可愛がってもらいやがれ。

http://www.asahi.com/articles/ASH8M5GFHH8MUTFK02Z.html?iref=comtop_6_01


民映研フィルム作品紹介No.5 奥会津の木地師

https://www.facebook.com/1589550734592252/videos/1650780715135920/

映像は民映研Facebookページより

久しぶりに一時復帰しているFacebookで知り合いがシェアしてくれた素晴らしい記録映像。

僕がFBに戻っている理由は、今月末に予定しているオシラサマ馬頭琴の里帰り東北ミニツアーに絡んでなんだけど、もともとオシラサマ馬頭琴を作る旅を去年の秋に始めた動機は「木地師のように」簡単な手道具だけを携えて、野山にまじり材料採取と製作を「真似っこ」したいということだった。その時に夢見た本物の木地師たちの姿を、技術 を今見ることができて本当に嬉しい。Facebookに戻ってきて良かったと思える数少ない、貴重な瞬間だ。さっそくFBでもシェアさせてもらったが、こ こはひとつ、自分のブログでも紹介と所感を書かないと!

以下は民映研のFBに寄せたコメントだが再掲しておく。

まずなにより、昭和後半の撮影時点でこれが昭和初期に木地師の道具を置いた人たちによる「再現映像」であることに驚いた。1分のくるいもなく意図したところへ打ち込まれるヨキなどの刃物を使う技術の正確さ、。特に、足先に挟んだ小さな木塊に刃物を打ち下ろして刳るナカギリ作業の場面では、初め思わず目を閉じそうになった。

木工を行うときには刃物の先に決して自分の身体の一部を置くな、と安全指導の厳しい学校で習い、その後ながらくそれを実践しているが、木地師の技術はそん なシロートのフェイルセーフ思想など吹っ飛んでしまう。4分の紹介映像のあいだ中、僕は完全に目がハートになっていた。

映像の中の人々は数十年のブランクを全く感じさせない。あれから40年を経た今はどなたもご存命ではあるまいし、その技術も継承されることはなかったろうと思うと、胸が熱くなる。

ぜひ本編を観てみたい。

と、意気込んで書いた。FBでシェアしてくれた知り合いは上映会をしたいと言っていたが、ぜひとも実現してほしい。民映研のFBには他にも若かりし頃の萱野茂が紹介するアイヌの文化や今はもう滅びたであろう秩父の竹縄(たかなわ)などの貴重な記録映像の各4、5分のサンプルがアップされているが、1時間足らずの本編を何本続けて観ても僕は見飽きることはないだろう。

寡聞にして知らなかったので調べてみたら、民映研、民族文化映像研究所の記録映像は姫田忠義によるもので、彼はは日本各地を歩き膨大な写真を遺した民俗学者宮本常一の弟子に当たるという。また姫田は、アイヌ文化とアイヌ語の継承者でありその保護、研究で知られる萱野茂とも親交が深かったそうだ。

さらに姫田は少数話者言語(或いは「消滅危機言語」、「消滅寸前言語」)の保護やその母語話者権利の擁護を訴え、また「ことば」にまつわるあらゆる事象に多角的に光を当てる活動を行なっている」という地球ことば村・世界言語博物館とも関わっている。

紹介映像を観すすめていくと、宮本常一が監修・解説していたり、オシラサマ馬頭琴の旅で訪れたなつかしい岩手県北部、一戸の山でのウルシ採取が出てきたり、、、

うーん、最初、偶然「木地師」で食いついた映像から、次々と芋づる式に僕の大好物が出現する。ちょっと、久しぶりに興奮した。


科学と技術

「科学」と「技術」はそれぞれに関連が深く、互いに補い合う領域ではあるけれど、同じものでは決してない。でも、それが判らない人が多すぎてウザい。

そのへんのミーハーちゃんたちの軽い会話だけでなく、テレビやネットなどあまり言葉を吟味せず、言いっぱなしで使い捨てていくメディアから、それなりに形として残りやすい紙媒体まで、これら2つの言葉を全く混同している。

科学とは岩波国語辞典によると
一定領域の対象を客観的な方法で系統的に研究する活動。また、その成果の内容。特に自然科学をさすことが多い。scienceの訳語。「科」は個個の部 門の意。 −ぎじゅつ【—技術】科学(主に自然科学)と、その理論の成果に基づく実際的な技術。 −てき【—的】〔ダナ〕科学の方法に合致して合理的・客 観的であること。「—に考える」

しかも、どうやら科学のほうが上等とみなされているらしく、本来は「技術」と言うべきところを「科学」に置き換えている方が多いように思う。

例えばロケット科学者。勿論、ロケットの開発、製造、運用に関する研究分野の中に科学は深く関わってはいるけれど、それらの実務を担っているのは殆どの場合、科学者ではなく技術者である。

20世紀初頭から前半にかけて、ロケットの基礎理論とその応用技術を包括的に研究し、ロケット工学の父と呼ばれるロシアのツィオルコフスキー、アメリカのゴダードらは技術にも科学にも造詣の深い科学者であり、ロケット科学者と呼ぶのに相応しい業績を残している。その次の世代、第二次大戦から冷戦時代に活躍することになるドイツのフォン・ブラウン、ロシアのコロリョフ、日本の糸川もその範疇に入るが、どちらかと言えば機体の設計、開発・生産システムの構築など技術者としての色のほうが濃いイメージがある。

さらに下って現代のロケットの地球や宇宙の観測という科学的な使用目的はともかく、ロケットそのものに目新しい科学的理論や知見が使われることはほどんどなく、どちらかと言えば枯れた既存技術の集大成でしかない。そこに「科学」の入る余地は見いだせず、したがって前述の「英雄」たちのように「ロケット科学者」と称せられる人など、余程のパラダイムシフトでもないかぎり、もう出てきそうにない。

にもかかわらずテレビが、三菱重工あたりのロケット開発に関わるぺーぺーの技術者に「ロケット科学者」の称号を与えれるのには呆れかえる。

原子力や核についても同じで、今の原子炉にしろ核兵器にしろ、その作動のための科学的な核物理学の基礎理論は20世紀前半に確立された言わば前世紀の産物で、その応用分野の原子力工学もやはり新たな地平を望むべくもない。まして、製造や運用に使われる技術には目新しいものなんぞ全くない。

この分野で科学者と呼べるのは核物理学者や原子力工学の中でも素粒子などの理論研究をしている学者達であって、技術開発をやっている人たちには当てはまらない。

だから、原発を製造する三菱や東芝や日立に科学者なんぞいるわけもないのだ。ましてや東電などユーザーに科学者がいるはずがない。それなのに、メディアは原子力の科学者が、核開発の科学者が、という表現を使う。なんとなく生々しい「技術」という言葉をさけ、もう少し抽象的かつ夢のありそうな「科学」にすり替えることで、華々しく未来を担う「科学者」とでも言いたいのだろうが、バカじゃないか?メディアの台本書いてる奴も本書いてるやつも、それで食ってる以上、言葉のプロじゃないのか?恥を知れよ!