山の暮らし探訪(その2)

椿山は高知市街から北西へ車で2時間仁淀川水系を遡った源流部にある。四国最高峰の石鎚山(標高1974m)から直線で10kmの四国山地最奥部の急な斜面に在る僅か2,30戸の小さな集落だ。かつて椿山には数百人が暮らし、山の藪や雑木を燃やして拓いきその灰を肥料としてカブなどの野菜や雑穀を栽培する焼畑という古くから伝わる農法が1980年ごろまで行われていた。

民映研(民族文化映像研究所)の姫田忠義が椿山の生活を記録したのは1970年代中頃で、当時、既に日本の他の地域では焼畑がほとんど行われなくなっていた。椿山に焼き畑が残ったのは紙幣にも使われる丈夫な和紙の原材料であるミツマタを栽培して貴重な現金収入が確保されていたからだという。日本の焼き畑文化の末期に4年に渡り椿山に通って制作した民映研の記録映像『椿山 ~焼畑に生きる』を見ると、石混じりの痩せた土がザラザラと崩れ落ちる急峻な斜面での焼き畑がいかに大変なものだったかがよく理解できる。

Google Earthの画面より

京都の「民映研の映画をみんなで上映する会」が堺町画廊で行なってきた短編の上映会に2年続けて参加した。今年の最終回でメンバーの方から、椿山を訪ねるツアーをやるので参加しないかと誘われた。この秋に長編の『椿山』を上映する予定だが、その時に椿山出身者で焼畑の経験や山の生活を非常によく憶えているおばあさんを呼んで、映像の解説や料理の指導をしてもらうのだとか。その準備のために現在は高知市内在住のおばあさんに会い、案内してもらって現地を訪れてみようというものだった。

若い頃に京都の北山歩きが高じて山村の暮らしに憧れ、京都市北部の花背別所に引っ越したほどだったし、できて間もない万博公園の国立民族学博物館で、その映像アーカイヴであるビデオテークがまだVHSカセットテープだった頃(椿山のものだったかどうかは記憶していないが、奇しくも椿山の焼畑終焉と同時期)に、焼畑の記録映画を見ていたほどだったから、椿山に行けるのは願ってもないことだった。

ただ、ずっと気ままな一人旅をしてきた僕はグループ行動や他人の決めた既定の旅程をなぞるのが苦手。それに何より、現在たった1人だけになったとはいえ、住人の居る集落に単なる物見遊山、通りすがりの覗き見的な訪問はしたくない。本当なら二つ返事で何を置いても参加したかったところだがちょっと躊躇した。

でも案内してくれるのが、戦前生まれで電気のない時代の椿山を記憶していて、結婚して離れたとはいえ故郷を愛し、焼畑をはじめ椿山の生活について積極的に語り継ぎたいと思っている元住人であるなら、そして、民映研の映画を自ら上映するほど日本の民俗文化を真摯受け止めようとする人たちと一緒に行くのなら、こんな機会はめったにないので参加を決めた。


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